タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

ハリウッドで初めてゲイであることを隠さなかったスター

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日本ではあまり読んだ人がいないかなと思うのでご紹介します。

サイレント時代からトーキー初期のスター、ウィリアム・ヘインズの伝記です。

タイトルの wisecracker はなんだろな、ぴしゃりとうまいこという人って感じでしょうか。公私ともにウィットに富んだ、辛辣な言葉を吐くことで有名だったビリー(ウィリアム)のニックネームです。

1900年、ヴァージニア州生まれ。14歳でボーイフレンドと駆け落ち。ダンスホール経営。町の大火ですべてを失う。15歳でニューヨークへ。

というほんまかいなの経歴。自らの性的志向を明確に意識し、迷いはないが商売の才覚はしっかりあるビリー君。

ニューヨークのゲイの世界では〝パンク〟として年長者と肉体関係を結び、庇護を得る。

〝パンク〟ってそんな意味もあったのね。

その後、長身と美貌を生かして映画界に入り、スターに。

当時のハリウッドはゲイ&レズだらけ。有名人の名前がいっぱい出てきます。ケーリー・グラントゲイリー・クーパーも男性の恋人と同居していた時期があったそうで、グラントはさておき、ゲイリー・クーパーは意外。しかし、時代とともに映画界の公序良俗コードはきつくなり、恋人のジミーと同居していたビリーは所属会社の社長から別れろと迫られ(「婦系図」か!?)、ほなやめさせてもらいます、と以後いくつかの映画会社で仕事はするものの、結果的には映画界を去ることに。

 しかし、ゴージャスな生活しか無理!な彼にそんなことができたのも、実は彼には俳優以外にインテリア・デザインの才能があったから。アンティークに関する豊富な知識とセンスを生かしたビリーの豪邸に招かれたスターや名士たちは、あら素敵、うちもお願いしたいわ、てな感じで仕事が広がっていき、西海岸に進出してきた新興実業家層のハートもぐっとつかんで、ウィリアム・ヘインズにインテリア・デザインを依頼することがステータス(料金はめっちゃ高!)になるところまで昇り詰めていく。そんな顧客の中にはかのレーガン夫妻も。そして晩年にはロンドンのアメリカ大使館の内装も手がけ、インテリア・デザイナーとしての名声を世界的なものとする。

 と実は、このへんがこの本のおもしろくないところで、ビリーのインテリア・デザインって、贅を尽くした豪邸のためのものなんで、ビリー・スタイルとか言われても、全然興味持てない。つか、金持ちバカやってんなーって感じで、むなしいっつか、ああ、虚栄、どうでもいいわ。

 では、読み応えのあるところはというと、やはり、ハリウッド・ゲイ事情と、一貫してゲイであることを隠さなかったビリーの姿勢でしょうか。

 本書のサブ・タイトルは

 The Life and Times of William Haines, Hollywood's First Openly Gay Star

ですが、オープンと言っても、今とは時代が違うので、〝公然と〟というのとはちょっと違う。ビリーはジミーと、まさに死がふたりを分つまで、半世紀近く同居し、その事実を隠さず、一切の偽装工作をしなかった。それだけで、当時はすごいことだったし、それは彼にインテリア・デザイナーとしての才覚があり、趣味と洗練の極みと見なされる地位を築いたからこそ可能だったのでしょう。

 著者もビリー・ヘインズの最大の偉業はジミーとの半世紀に及ぶ愛を貫いたことだ、と書いていますが、その一方でふたりの愛の内実みたいなことはよくわからない。若い頃はお互い性的には乱脈だったし、ジミーは働くわけでもなく、ビリーのお金で贅沢するのが仕事みたいな生活だった。近しい友人たちにしても、ふたりは夫婦のようなものと見なしていただけで、やはり踏み込んではいけない。でも、まあ、異性カップルだって、その関係の内実なんて他人にわかるんかい?なわけですが。

 結局、ビリーの人生はゲイを隠せと映画界から迫られた一時期を除けば、概ね順風満帆で、お金持ちになった分、親族の面倒もきちんと見て、ジミーとともにゴージャスなヨーロッパ旅行を繰り返し、それを仕事に生かし、70歳を少し超えたところで肺ガンになって、ほどなく亡くなってしまうけれども、ジミーを筆頭に残された人たちが困ることのないよう、きちんと遺言も残した。それでもジミーは1年とたたないうちに後追い自殺をします。

 同じように何十年も養ってきた恋人から、最後は、アル中に愛想をつかされ、捨てられたトルーマン・カポーティを、思わずにはいられません。

 

 

 

 

夏の花 原民喜

 原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

 

塾の課題です。

ちょうど8月15日近辺に読んでいて、民喜が民忌、な心持ちでした。

提出したものは↓

 

羊羹をおくれ

 

<私は自分が全裸体でいることを気付いた>

 原爆文学の嚆矢とされる原民喜「夏の花」。パンツ一つで厠にいた語り手は、おそらく脱糞中だ。〝災害に遭ったとき、××だったらいちばん困る〟の〝××〟に真っ先に思い浮かびそうな状況で、彼は人類史上初の原爆投下の瞬間に遭遇する。そして気がつけば全裸。圧倒的な悲劇に遠慮なく割り込む喜劇を、笑うに笑えない。

 被爆直後から、作家は目の前にあるものを写生するように、周囲の悲惨な光景を淡々と描き出していく。それだけになおさら、<だらりと豊かな肢体を投げ出して蹲っている中年婦人>の肉感や、<燻製の顔をした、モンペ姿の婦人>、<次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり>、<首実検>といった鋭角的な言葉が鮮烈だ。

 また一方で、<赤むけの膨れ上がった屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置き換えられている>と、いわゆる原爆文学的なイメージをはみ出す描写に、<妖しいリズム>、<痙攣的の図案>といった言葉が重ねられる。そして、<超現実派の絵の世界ではないか>まで行き着くと、<この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のように感じられる(中略)「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮かんでいた。>という被爆以前の語り手の予感と響き合い、作家の地の色がのぞく感がある。

 「夏の花」の後日譚である「廃墟から」。

<小さな姪はガーゼを取り替えられる時、狂気のように泣喚く。/「痛い、痛いよ、羊羹をおくれ」/「羊羹をくれとは困るな」と医者は苦笑した。>

 蚊帳の中にいないと、原爆による火傷の傷口には蝿が吸着き蛆が湧く。幼い女の子が、すさまじい痛みに耐えたご褒美に、今はめったに食べられぬ甘い美味しい羊羹をおくれと訴える姿は、読み手を微笑ませつつも、現実の重みと強さを持って、いじらしく切なく迫ってくる。

 当初「原子爆弾」であった題名が、占領軍の検閲に配慮して「夏の花」と改題されたのは、作品にとって幸せだったと思う。語り手が前年に喪ったばかりの妻の墓に手向けた<黄色の小弁の可憐な野趣を帯びた>〝夏の花〟は、原爆が圧し潰し焼き尽くしたすべての小さなものたちに重なっていく。

 

 今になって気づいたのですが、広島が舞台でありながら、5歳児でも「わしは〇〇じゃけん」とかって話すという、あの方言がゼロ。原爆投下の大混乱のなかでみんな標準語を話しているという、ある種シュールな光景が出現しています。私の中にあった〝民喜すかした男説〟が裏付けられた気がします。まあ、高等遊民だものなあ。これが大阪が舞台の話だったら、みんなすぐ変だと気づくと思うんですけど……。

 あ、でも、やたらと出てくる兵隊たちは全国区か。このやたらと兵隊が出てくるのは広島が軍都であったからで、アジアには〝原爆は天罰〟と感じている人たちもいるのだという厳しい指摘が、受講生の方の中からありました。

 あと民喜の死に関して、「奥さんが亡くなったからって死ぬかなー」とおっしゃった方がいて、驚いた私は、「私死にたいですけど」と言いそうになりました。

 高等遊民であった民喜は困窮して吉祥寺-西荻間で鉄道自殺。 私はこの人が亡くなった場所の上を何千回も電車でゴトゴト踏みつけているじゃないか。

 ふたりがひとりになるっていうのは100が50じゃなく、30、20、10になっちゃうことだと実感しています。それでも食べていくだけのお金があれば、本を読み、好きなものを書いて、民喜も死にはしなかったかもしれません。けれども、元来自活と無縁な人が、唯一世界への窓であったような妻を亡くして、それでも生きていくのだと、がむしゃらにお金を稼ぐ気になれるでしょうか。もういいわ、と思うよなあ、民喜。

 私は鉄道自殺は痛そうだし、人に迷惑かかりすぎだし、スプラッターだし、いやですけど。

ひとりぼっちセット

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日曜日、人生の丘 ? くらいなことがあって、超えられたのかどうかわからないのだけど、おわたおわた、の場所が千鳥さんのそば。

新道工房作品展へ行ってしまいました。

千鳥という器屋さんは、入ってきたお客さんの97%が何か買っていきます。(ヒロキざっくり体感)

すでに写真を見て、欲しいよ〜、のマインドな私など、あっという間のまんまと餌食。

 

リラックス箸置さん、はずせません。

小皿は「鳥が可愛くないのがいいんでしょうか?」と店主さんよりご質問。

ちょっぴり邪悪が素敵です。

 

そして、いちばん心奪われたのがお湯呑み。

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作家さんの説明によると、この子はおいもの葉っぱを傘にして

指さす先は

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太陽

なのだそうです。

 

うちにお湯呑みは足りないか?

余っております。

2個セット × 2

+ 去年購入のたっぷり大きめのお湯呑み

だけど、このお湯呑みがなんだか猛烈に好きで。

毎日これで麦茶を飲んでいます。

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我が家の茶托にもぴったり。

 

しかし、3つ並ぶといかにもひとりぼっちですね。

死んだ人に会いたいです。

憲法本

日本国憲法 (小学館アーカイヴス)

 

 

もちもち塾の課題です。

日本国憲法を一度読んでみるのはオススメです。

わたしゃ読んでるんだぜ、って気分になれます。

当たり前だけど。

提出したものは↓

 

理想ですけど、なにか?  

 

 今回課題の憲法本、原則1冊を選んでということでしたが、1冊じゃ誰かさんの鵜呑みになっちゃう、ならない憲法力(!?)は私にはない!ってことで、結局6冊も読んでしまいました。私の憲法力は高まったのか〜???

 

 

憲法の「空語」を充たすために

(2014)

自衛隊の国際貢献は憲法九条で―国連平和維持軍を統括した男の結論

かもがわ出版 2008)

 

国家を考えてみよう (ちくまプリマー新書)

ちくまプリマー新書 2016)

 

みんなの9条 (集英社新書)

(2006)

9条どうでしょう (ちくま文庫)

( 2012)

 

 まずはまんま『日本国憲法』。1時間ほどで読めちゃいます。前文は、戦争はいやや、主権在民、世界の平和と幸福、崇高な理想を達成しませうで、内容に何ひとつ文句はありませんが、文体があまり素敵じゃありません。石川淳とかに添削してもらって、もうちょっとカッコよくなっていたらなあ、惜しい。

 続く第1章はいきなり天皇。私、生まれただけでえらい人というのが存在する、って考え方には反対です。なにか人間の基本を損なうと思う。<国民の象徴>って意味不明だし、<国民の総意に基づく>って別に訊かれたこともない。第20条では国及びその機関の宗教活動を禁止しておきつつ、第7条天皇の国事行為10儀式って、どう考えても宗教儀式だ。しかも国事行為! 主権在民民主主義に現人神やめたふり天皇制をぶちこむのは、やはり無理がある。

 そして、無理と言えば一部で無理の声が喧しい9条。憲法本の圧倒的多数が9条本で、読んだのも『憲法』以外は9条本、しかも9条ナイス本。9条ナイス温泉にどっぷり浸かりませう。

 <理想を高く掲げることこそが、憲法の第一義的な役割>(『どうでしょう』小田嶋隆)、<戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するものは、軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできない。>(同書、平川克美)だよなー。いい湯だな〜。

 何より先進国で唯一、70年間軍隊が人を殺していないという、ピカピカの実績! <先進国の中では日本だけが持っている中立もしくは人畜無害な経済大国というイメージ>(『国際貢献は九条で』)を活用して、日本にしかできない国際貢献の形があるという、紛争解決の現場にいた伊勢崎さんの言葉は重い。<先の大戦での占領地や植民地での非道についてはいまだに戦争責任を問われ続けていますけれど、「そんな昔の話を蒸し返すな」と言っている人たちは、「そんな昔」から後七〇年間にわたって「そんな話」が一つとして加算されていない(原文は傍点)という驚くべき実績の前にもう少し居ずまいを正すべきでしょう。>(『空語』)そうだ、これ以上謝る案件増やしてどうする。

 憲法違反じゃないのか自衛隊、に関しては、<ものごとが単純でないと気持ちが悪いというのは「子ども」の生理である。>(『どうでしょう』内田樹)、<うやむやでも不都合がないのだから、それでいい>(『みんなの』橋本治)。白黒つけないカフェオレの知恵か。

 基本理念はクリアーに、現実的な対処はしたたかに。9条廃棄で軍備増強より原発なくすほうがよっぽどテロ対策になるぞと思う、梅雨空に。

 

 別に天皇制批判をするつもりとか全然なかったんですけど(右翼も怖いし)、憲法読んで引っかかるところがそこしかなくて。

「後半は9条ナイス名言集」と先生に言われてしまい、その通りでござる。欲張って消化不良。1冊じゃ誰かさんの鵜呑みになっちゃうって、6冊鵜呑みにしておなかいっぱい。いやはや、9条ナイス温泉に浸かってられるのもいつまでやら。怖いですね。9条どころか、国民に基本的人権なんか無用って政治家のみなさんがガンガン当選してますから。

 『国家を考えてみよう』で橋本治が 言ってるんですけど、民主主義って国民バカじゃないって前提で成り立つ制度なんですよね。しみじみ。

 

 

二十四の瞳

二十四の瞳 (新潮文庫)

もちろん塾の課題です。

壺井栄を舐めてはイカンです。

提出したものは↓

 

24eyes

  小さな村の小学生は、五年生になると片道五キロの本村の小学校へ通う。< てづくりのわらぞうりは一日できれた。それがみんなはじまんであった。まい朝、あたらしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。じぶんのぞうりをじぶんの手でつくるのも、五年生になってからのしごとである。日曜日に、だれかの家へあつまって、ぞうりをつくるのはたのしかった。小さな子どもらは、うらやましそうにそれをながめて、しらずしらずのうちに、ぞうりづくりをおぼえていく。> 可愛いっ! 可愛すぎる! ぞうりにハートを鷲づかまれだ。

 壺井栄二十四の瞳』はもはや大昔の出来事とはいえ、高峰秀子主演の映画の大ヒットのせいで、イメージの手垢に汚れまくっちまっている。〝涙涙の師弟愛&反戦〟のレッテルベタベタ。でも実は、こんなに瑞々しく始まるのですよ。そして、既存のイメージから大幅にずれることはないとはいえ、微妙に意外な展開もある。

1.洋服と自転車で颯爽と登場した大石先生は、二学期の初日にアキレス腱断裂で早々に分教場をやめてしまい、本校勤務となる。ゆえに学校で再び24eyes(私がつけたニックネーム?です。ベタな直訳です。)を教えるのはみんなが五年生になってから。

2. 24eyesと本校で再会したとき、大石先生は結婚したと生徒のひとりの小ツルが言うのだが(あっという間に人妻)、それはデマだったのかと思うくらい、大石夫の影は薄く、苗字も変わってない。婿養子らしい。

3. そして、24eyes が小学校を終えてそれぞれの進路へと旅立っていくとき、大石先生も戦時下でなにかと言えば赤、赤と監視の目の光る学校に嫌気がさして、あっさり教師をやめてしまう。意外や、さして教職に執着のない大石先生。

4. 8年後、3人の子持ちとなった大石先生。やっとちらり夫が登場する。徴兵検査に向かう24eyes男子に遭遇。

5. さらに5年後、敗戦、夫戦死、大石母&末娘病死で、6人家族が半減! 稼がにゃならん大石先生、分教場に復職。

6. 大団円同窓会。24eyesもほぼ半減。男子5人中3人戦死、ひとりは盲目に。女子はひとり病死、ひとり行方不明で、産婆と教師の職業婦人がふたりいるが30前にしてすでに〝オールドミス〟と呼ばれている。戦死者多数で男が少ないのだものね。

 同じく職業婦人の大石先生は昭和3年、第1回普通選挙の年に教師になり、40になって老朽(今ならパワハラ&セクハラ!)と呼ばれつつの臨時採用での復職だ。女子7人中、専業主婦はただひとり。風俗系ふたり。女子もまた戦争の荒波に翻弄されている。

 映画『二十四の瞳』を観たある人の感想は偽善的。その是非は未見のわたしには判断できないが、小説の大石先生は反戦というよりは厭戦的で、庶民の実感として、やたらと好戦的な男の子たちの姿ともども説得力を持つ。

 

 私は最初に引用した部分が本当に大好きで、それさえ紹介できたら本望じゃと、字数を取ってしまったなあ。

 受講生のひとりの方が「いちばん心に残ったのはスミレの花のにおいのところ」とおっしゃって、

 大石先生が結婚したとひとりの子がみんなに告げたあとのところなのですが

 

そばにくると、スミレの花のようにいいにおいがした。それはよめさんのにおいだというのを、みんな知っていた。

 

 これはなんだ? 化粧品の匂いかと思った人、1名。この界隈では嫁に行くと全員が使う化粧品? 24eyes 母ちゃんたちが使っている気配はないが……。

 

 あと、やはり受講生の方から、大石先生休職の12年は、戦場に生徒たちを送り出す教師、という立場になることを回避するための作者の策という指摘があり、これは鋭いなあと。

 いずれにせよ壺井栄は、固定しているイメージよりずっとうまいし、掘り起こしどころありで、多角的な読みが可能なのだなあと。

 

 

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

インタビュー入門講座の課題が今回は書評でした。テーマは「声を聞くこと」。

提出したものは↓

 

 

 無意味と物語と暴力   

                           

< お父さん、犬が死んでるよ。> という声から、岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)は始まる。聞き取り調査の途中で、この声はぽかり宙づりになったまま、無視されてどこにもつながらない。それでいてその夜を、岸にとって < まるでラテンアメリカの作家によって書かれた、「何が書いてあるかはっきりわからないが、妙に記憶にだけ残る短編小説」のような夜 > にしてしまう。

 

  小学生のとき、あまり親しくないクラスメートの家へ一度だけ遊びに行った。母親のいない子で、幼い弟妹がいて、父親はタクシー運転手で留守がちだと言っていた。狭い団地に荷物が多く、季節はずれの電気ごたつをテーブル代わりに使っていて、天板にはコップの丸い輪っかの跡が無数についていた。そのコップの跡が、何十年もたった今も記憶から消えない。無数の丸い輪っかの跡が、その家を語る声だった。そこから彼女たちの生活が立ち昇っていた。

 

 

 調査者として他者の語りに耳を傾ける社会学者は、その語りの分析において、一般化、全体化というある種の暴力と無縁ではいられない。< 人の語りを聞くということは、ある人生の中に入っていくということ > だけれど、< 安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなこと > でもある。そっとすくいとること。過剰な意味づけを自戒しつつ、耳を済ますこと。

 

< どうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたい>と岸は綴る。< 世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まって世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて > 書くのだと。

 

 人はともすれば、できあいの鋳型に、ありがちな物語に事物を落とし込み、片づける。

< 物語は「絶対に外せない眼鏡」のようなもので、私たちはそうした物語から自由になり、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない。しかし、それらが中断され、引き裂かれ、矛盾をきたすときに、物語の外側にある「なにか」が、かすかにこちらを覗き込んでいるのかもしれない。>

 何かが垣間見えるのではなく、向こうが覗き込んでいるのがおもしろい。無意味や無音、断片を断片のままに受け入れたとき、ありがちではない物語のかけらが生まれるのかもしれない。

 

< 私たちは、私たちのまわりの世界と対話することはできない。すべての物の存在には意味はない。そして、私たちが陥っている状況にも、特にたいした意味があるわけではない。

 そもそも、私たちがそれぞれ「この私」であることにすら、何の意味もないのである。私たちは、ただ無意味な偶然で、この時代のこの国のこの街のこの私に生まれついてしまったのだ。あとはもう、このまま死ぬしかない。>

 わあ、と思う。この身も蓋もない認識は、昨年、ただひとりの家族を失って以来、私の感じていることそのままだ。それでも生きて行く、と言わないで、< このまま死ぬしかない > がいい。すべてを無価値、無意味と感じる心を、そっとしておいてくれる。

 

 ひとりになって、首吊り自殺が多いのはなるほどと納得した。首吊りは思い立ったが吉日(!)だ。手近な材料で即刻実行できる。人はそんなふうに無意味の中でふと死んでしまったりもするのだろう。物語の裂け目に陥落する。物語の眼鏡が一瞬ずれて、「無」のようなものに覗き込まれて。

 

< インタビューと、息を止めて海に潜ることは、とてもよく似ている。ひとの生活史を聞くときはいつも、冷たくて暗い海のなかに、ひとりで裸で潜っていくような感覚がある。>

 

 むむむむ。私はダイバー。海に潜るのはとびきり楽しい。スクーバなので息は止めない。浮力調整ベストの空気を抜くのと同時に息を吐き、肺を小さくしてすーっと海のなかに落ちていく。潜降でしか味わうことのできない特別な感覚。ナイト・ダイブも少しも怖くない。真っ暗な海のなか、ダイバーのライトの光の筋が行き交う光景は宇宙遊泳みたいだ。人間が無重力を体験できるのは、宇宙とダイビングだけ。夜の海にはエイリアンさながら、奇怪な甲殻類やなにかが待っている。何と出会うかわからない無重力の世界も、インタビューに似ているのかもしれない。海のなかでは自分の吐いた息がぶくぶくと音を立てる。言葉を発しない魚に私はついつい声をかける。

 

 犬に説教するおばちゃんの話が出てくる。 < おばちゃんは、おすわりをした犬の正面に自分もしゃがみこんで、両手で犬の顔をつかんで、「あかんで! ちゃんと約束したやん! 家を出るとき、ちゃんと約束したやん! 約束守らなあかんやん!」(中略)  柴犬は、両手で顔をくしゃくしゃに揉まれて、困っていた。>

 

 岸はこれは擬人化ではなく、区別をしないのだと言う。おばちゃんのなかで、人も物も動物も、すべてが平等に生きているのだと。

 

 私はけっこう海中で魚と目が合う。魚はたいてい、ちょっとバツが悪そうに目をそらす。それはどこか、満員電車のなかでの視線のやりとりに似ている。

 

 先生の講評の冒頭に取り上げていただいたのですが、そこでまず出てきた言葉が「告白」でした。走り書きのメモから先生が言ってくださったことをうまく再現できるかどうか心許ないのですが、読み手にも書き手にも〝楔(くさび)〟として作用する、言ってしまったことで引き返せなくなる言葉、自ずと次の一手が決まってしまう言葉、もうきれいごとではない本当のことを言うしかない領域へと書き手を押し出す言葉というものがあり、それは人の心に触れる。その一方で、きれいごとじゃない、自分が〝いい〟と思うことを言うのはつらい。大事なことを否定されると心が揺らぐ。けれども取材の文章でも実は告白がなんらかの形で入ることで、誠実な文章、読みたい文章になる。

 私の書いたものは一見引用が多いように見えて、そのあいだを埋めるもののほとんどは告白である。無意味無価値という視点からは、悲劇が長く生き残っていることの理由も見えてくる。

うーむ、やっぱうまくまとまんない。とにかく、「告白」と言われて、あー、だから提出したあとで、あんなものを出してよかったのかなーという逡巡がぐるぐるであったのだなあと。「告白」してるから恥ずかしいんですよね、怖いし。

 

でも、先生の講評も < すべてを無意味、無価値と感じる心を、そっとしておいてくれる> もので、いやむしろその心で書いていくのだと。

 

あと今回強烈に感じたのが自分の文章の書き方で、私は全体の構成をきちんと考えてから書くということができず、とりあえずとっかかりの引用箇所があって、テーマも結論もないまま、そこで書いたことに引っ張られて結末にだどり着くんだよなあ、ほとんど何を書いても。行き先は文章に聞いてくれ〜。自分が何を書くかわからないのはちょっとおもしろいですけど。

これからのマルクス経済学入門

これからのマルクス経済学入門 (筑摩選書)

 

もち塾の課題です。

提出したものは ↓

 

マルクス経済学はつらいよ

 

  苦悶読書。松尾匡・橋本貴彦著『これからのマルクス経済学』。それでもなんとか読み終えて、いかんこれではマルクス嫌いになっちゃう、とうちにあった内田樹石川康宏著『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』で口直し(失礼)。果敢にも略称『これマル経』の再読に挑む。

 初回、私の中に渦巻いた思いは、弁解かよ、まどろっこしい、なんじゃこの用語、マルクス経済学を救うとか私ら関係ないし、などなどであったが、その底流に、ひょっとして私の頭が悪いだけ?という不安がひたひたと流れていたことも否めない。

 2回目、1、2章はそんなに抵抗ない〜。悪い頭が慣れてきたか。3章、アカン、やっぱりイライラする〜。

 略称『若マル読』にははっきりと<マルクスの経済理論や政治理論は、もう現実政治では「賞味期限切れ」だと思われています。>と書いてある。『これマル経』も<世間からは「現代社会からズレまくった一九世紀の遺物」ぐらいに思われている>と認めている。そこをひっくり返す難事業というのはわかるのですけどねえ。

 本書が使えるマルクス主義経済学概念として挙げるのが「階級」、「疎外」、「唯物史観」、「投下労働価値」。「階級」意識を持たないと不満が「アイデンティティー」方向に向かって排外主義が噴出すると著者は脅すが、今時階級意識って……あ、99%……WE ARE THE 99%(注)ならピンとくるのにね。

 「疎外」、「唯物史観」はまあいいとして、「投下労働価値」まわりですよ、私のイライラの元は。必要労働(必需品)と剰余労働(奢侈)、前者は労働者が賃金で手に入れ、後者は資本家が利潤で〜って、いくらなんでもざっくりすぎません? で、労働者が手に入れられないもののための労働は搾取。とにかく肝は労働配分なのだときて、そこから、<どうして税金というものが存在するのか、考えてみたことがあるでしょうか>とか<消費税でまかなうとすれば、それが何を意味するかわかりますか>とか、上から目線の感じの悪い文章が説くのは、税金をかけるのはその分野の消費を減らし、労働を浮かせ、必要なところへ割り振るためだと。ほんまかいな。<国が潰れることはないのですから、返済分も借金でまかなうことにして、延々と借金を膨らませて何か都合が悪いのでしょうか>って、ギリシア潰れかけてるんじゃないんですか。

 4章になると著者が交代し、数量分析で介護の人材確保も大丈夫だそうで、ほっ。社会的ニーズに答える社会システムをどう実現させるのか、その検証に投下労働価値分析は有用なのだ、<従来型の生産を維持・拡大させるために>、<労働者からすればさして必要でないものを生産している>ことを第3章では<「搾取」と呼んだのでした。>と説明して、例としてリニアモーターカー原発が挙げられる。これならすんなり納得。

 3章はなんだったのか。やはり私の頭が悪いのか〜。あと『若マル読』の説く<論理の飛躍を「違和感」としてではなく「浮遊感」として読者に感じさせるマルクスの「麻薬性」>が、本書からはまったく感じられないのが残念、というのはないものねだりかなあ。

(注)2011年のウォール・ストリート占拠の際のスローガン。

 

 

 書ききれなかった部分として、何人かの方が引用していた

<若者が身近な生活にかまけていることを見下しながら、「若者はもっと政治に関心を持て」と言うから、それを真に受けて政治に関心を持った若者がネトウヨになるのです。>(斜体部分原文は傍点)

 に果たしてそうだろうかと疑問を呈し、その前段

 与野党ともに<一人ひとりの生身の有権者の利害から遊離したところで「安保」だの「財政再建」だのと、宙に浮いた天下国家論を振り回す、悪しき作法がまかり通るようになった>

 に対して、「安保」も「財政再建」大事だし、そもそもマルクス主義者が天下国家語らないでどうする!、と批判したところ、

 先生が松尾氏の別の著書の内容を紹介されて、松尾氏いわく、自民党に勝つには自民以上の財政出動をやるのじゃ、安保だなんだ言ったって、子育て介護に疲れた人、家賃の支払いに困っている人にとっては、そんなもんどうでもいいんだ、目の前の問題をなんとかしてくれ、なんだ、と。

 で、その財源はどんどん札を刷ればいいのだと。

 私、経済学に疎いのでよくわかんないんすけど、札刷りゃノープロブレムなら、どこの国も苦労しないんじゃね?

 なんか信用できんし、庶民の立場に立っとるようでいて(階級意識ってやつですかい?)見下してる臭がするし、なんかもうマルクス主義者っつうよりマキャベリストの香りだし……。

 一方で、日本の政治状況はそこまで来ちゃってるのかいなあと、陰々滅々がふつかほど続きましたとさ。

 やはりパタゴニアで凍死か。(今まで思いついた中でいちばん痛くなくて美しげな死に方なんだけど、問題は寒いのと我が最愛の人が眠るバリや日本から遠い。パタゴニアで死んでも会えるかなあ。)

 

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)