タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

わたしの「女工哀史」

わたしの「女工哀史」 (岩波文庫)

女工哀史』の装丁、カッコいい!

 

もちろん塾の課題です。

 

あらくれ☆ビフォー・アンド・アフター

 

  私は小学2年から6年まで延々と、通知表に〝自我が強い〟と書かれ続けた。「悪いことじゃありませんよ」と親に言った担任もいたけれど、自己主張の強いイヤなやつと言われ続けている気分だったぜ。すかたん。高校生のとき、教科書に載っていた茨木のり子ペンネームの由来を語る文章に <切られた腕を取り戻しに来る茨木童子の自我の強さが気に入った> 云々とあり、初めて別に自我が強くてもいいんだと思えた。自我の恩人、茨木のり子。 

 さて、『わたしの「女工哀史」』。夫にはさっさと先立たれるわ、ベストセラーの印税は悪いサヨクに騙しとられるわの、薄幸気の毒人生が綴られているかと思いきや、著者高井としをは徳田秋声『あらくれ』の主人公さながらの自我最強。自我先輩! 貧困の中、10歳!で親元を離れて紡績女工になって以来、一匹狼で、女のくせに生意気と言われても言いたいことはずけずけ言い、職場を転々としながらのその日暮らし。計画性はまるでなく、貧乏なくせにちょっとお金が入るとすぐ贅沢に走るすかたんだ。まるで自分を見ているようで好感が持てるぞ。

 そんなあらくれが『女工哀史』の細井和喜蔵と自称〝友情結婚〟をして、素敵な主夫をゲット。しかし、主夫はすぐに死んじまい、子供まで死んじまって、しかも和喜蔵の印税が少々入ったものだから、やけくそあらくれ中〜、に労働運動家、高井信太郎と出会い、それがすかたんなスキャンダルとなる。するととしを、夫と子供を次々亡くした失意のどん底で、やっと頼れる人ができたというのに、なにもかもいやになったとひとり出奔。一匹狼魂を炸裂させる。

 しかし、高井と再会、再婚し、大勢の子供をもうけ、次々と亡くし、戦後ほどなくまたも夫に先立たれる流転の中で、としをは大きく変貌していく。ひとりあらくれから、労働者〝仲間〟を代表しての対権力あらくれ、シングル肝っ玉おっかあ世話焼きあらくれだ。

 果敢に戦い、仲間のためにもさまざまな権利や保障をぶんどるように獲得したとしをだったが、生涯最底辺の労働者の境遇から脱することはできなかった。時代のせい? 学歴がなかったから? 女だったから? これがもし男なら、彼女ほどの指導力、行動力、才覚があれば、なにかしら浮上の道もあったのではと考えてしまう。

 スキャンダルで東京を捨てて以来、としをの生活の場は関西となるが、大阪がニューオリンズなら尼崎はメキシコと言われる(ホンマかいな)界隈の土地柄を背景に、としをとともに働く当時の関西の庶民の話し言葉が活写されている。<すかたん> 久しぶりに聞きました。この素敵な罵倒語もほぼ死語だ。寂しい。のでとりあえずちりばめてみました、すかたん。

 

 〝友情結婚〟なんて奥歯にもののはさまったような言い方からしても、としをは細井和喜蔵にはあんま惚れてなかった説を唱えたところ、「私もそう思う」と先生から賛同ゲット。同じ階級から出たインテリ&文士へのあこがれ + 生来の世話焼き魂が病弱貧乏を見て燃え上がったのではないかと、憶測をめぐらすヒロキです。

 

 

芽むしり仔撃ち

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 

塾の課題です。

意外とおもしろかったぁ。

 

セクスの人工世界

 <夜更けに仲間の少年二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。>大江健三郎『芽むしり仔撃ち』は曖昧に始まる。そこへ〝セクス〟だ。ほどなく彼らは田舎へ疎開させられる感化院の少年たちで、時代は第二次世界対戦中とわかるわけだが、この時代、いやどの時代の日本のどこの都会に、性器をフランス語でセクスと呼ぶような、すかした少年が存在するのか?

   冒頭、〝セクス〟によって投げ込まれた違和感は、〝僕〟の弟の描写でさらに加速する。<弟のバラ色に輝く頬、潤んだ虹彩の美しさを誇りに感じた><弟は、微笑をあふれさせながらポケットの鳥の縫取りのある広い手巾で頬をぬぐい>、とても感化院の薄汚れた不良とは思えぬ学習院初等科的弟。そして、この小説の中で唯一時代を明示する〝予科練〟が登場するのだが、<すばらしく荘重で若わかしく情欲に満ちた服装の青年ら、予科練の兵隊たち><念入りに調教した馬のように美しかった><情欲的で動物的な逞しい美しさ><ひきしまって小さく硬く欲望をそそる制服のなかの尻、逞しい頚、剃りたてで青っぽい顎>、<情欲にみちて極度にみだらな戦争の服>と、このあたり、少女マンガ +「さぶ」&「アラン」(注 : ホモ雑誌&少女向け!ホモ雑誌)。

 感化院の15人の少年たちはひとつの村へ押込められ、疫病が発生して、村人たちから置き去りにされ、束の間のぱっとしない自由を味わい、やがて帰還した村人たちからまた、自由をむしり取られる。

 そうした物語の流れの中で、唯一<僕>から名を問われるのは朝鮮人少年、李。ほかに名があるのは南にあこがれて〝南〟と呼ばれる少年と、〝クマ〟から〝レオ〟(注 : この命名はともに英語読みで名がレオとなるトルストイトロツキーを思い起こさせる)になる犬。他の登場人物は僕、弟、脱走兵、少女、鍛冶屋など一般名詞のままで、感化院の少年たちなどはまるで背景画かなにかのようにひとくくりで〝年少の仲間〟とされてしまう。

 〝愛人〟となる少女に<「あんたの年としては勇気があるほうよ」>と言われて、〝僕〟は<「俺の年を誰に聞いたんだ」>と問い返すが、実際、この小説の中で年齢を明示されたものは誰ひとりいない。この少女にしても<少女のセクスの冷たく紙のように乾燥している表面>と、死体となったときの<ぼろにくるまれた小さなもの>という描写から、思春期前の10歳前後かと推測されるのみだ。

 山に、村人に閉じ込められ、荒れ狂う海に漂流する思いでいる少年たちの世界に、〝僕〟の無情な父は出てきても、母は一切登場しない。唯一例外的な〝少女〟と〝僕〟の交情も、〝接触〟と〝後退〟でしかなく、予科練への欲情の粘度とは対照的だ。女は母性としても女性としても登場しない。

 しかし、この〝僕〟の語りの生み出す曖昧模糊世界、動物の死骸と腐臭、臓器、汚物、糞尿にまみれたホモソーシャル集団、閉塞と圧迫と暴力の物語には、人工物ならではのいびつな魅力がある。だから舐めるような読書に耐えうるのだ。それを普遍性というのはちょっと違うのかもしれないけれども。

 

 この小説から〝敢えて欠落させられているもの〟を拾い上げるだけで終わってしまいました。あと2段くらい丁寧に掘り下げたかったなあ。

影裏

影裏 第157回芥川賞受賞

 

塾の課題です。好き嫌いで言ったらはっきり嫌いです。

 

ふりかけ?

 <次の人とのつき合い方にはちょっとした配慮が必要だった> 唐突にこんな文章が出てくる『影裏』(沼田真佑「文藝春秋 2017.9」)とのつき合い方にも、ちょっとした配慮、いや忍耐が必要だ。〝次の人〟ってなんだよ? 慌てるな。それはほどなくわかってくる。

 <車は夏の盛りに井上喜久雄氏がシャベルの裏を返して地均しに励んだという一画に停めた。>〝井上喜久雄〟って誰? 当然知っていてしかるべき人? いやいやほどなく、普通の爺さんとわかる。それならなぜ、最初にいきなり説明もなくフルネームで出してくる? 意味はない。たぶん。要するにこういうやり口が、思わせぶりが好きなのだ。あ〜めんどくさい。

 『影裏』は手法としてはごくオーソドックスな、純文学臭ぷんぷん作品だ。なにしろ基本、おもしろいことは何も起こらない。で、純文学ってそういうもんだとは私は口が裂けても言いたくないけれど、この純文学でござる作品には上記のような手口しかり、時間軸の組み立てしかり、意図的に説明を省いた思わせぶりが満ちあふれている。むしろ、思わせぶりのない段落を探せ、と入試問題に出したいくらいでござる。

 さらにヴォキャブラリーつか表現つか……<明快な円網>、<用談>、<夕景の支度がととのっていた>、<川づたいの往還>、<喉を縦にして美味そうに飲んだ>、<眉に溜まった汗の滴は指先でつまんでそのへんに捨てた>……冒頭から2ページほどをざっくり見てもこれだけの、私の心に小さなささくれを作ってくれちゃうひっかかり……。喉を縦に、って当たり前やがな、と思わず突っ込みたくなる大阪人の魂であるし、汗を指先でつまんで捨てるって、そもそも人はそんなめんどくさいことをするものか……。

 こんなささくれジャングルの中で元カノの名前が副嶋和哉とくると、またややこしい名前つけくさって、なのだが、これが<性別適合手術を施術するつもりだと>公言ではっきり男性と知れ、が、<記憶の中の面影と合わない、穏やかな女性の声>は口調も女性で、元カノが通常女性として社会生活を送っているのか、送っているとすればいつからなのか、主人公はいわゆるゲイなのか、またも怒濤の思わせぶり攻撃のうちに……。  本書の話題の中心であった、主人公の親友とも言うべき日浅が震災で行方不明となり、彼と父との絶縁が明かされ、この父親の怪しくも冷酷すぎる態度がまたまた思わせぶりで、LGBTも震災も、純文学思わせぶり丼に、はらりまぶしたふりかけさながら。あ〜辛気くさ。思わせぶりがゲイと、いや、芸となる作品もあるのだろうが、こいつは魂に触れないなあ。

 と、芸 / ゲイは、変換が引き出したのだけれども、ふとこれは、俺はゲイなんだ〜!の魂の叫びを、おずおずと思わせぶりの渦巻きに練り込んだ、迷走型カミングアウト小説かもと思う深夜。〝結婚〟や〝結婚式〟への妙なこだわりもそこ? ゲイだって互助会で結婚式挙げて結婚したいのだ、と。むむ。

 

 迷走型カミングアウト小説路線で行ったほうがおもしろかったかも、と先生の評。でも、正直、私にとって深読みしたくなるほどの魅力のない小説でした。とにかく自意識過剰な文章の気取りが鬱陶しくて、これをうまいというってどんなセンスやねんと。

 日浅サイコパス説を出してきた人がいて、その筋でいくと父親の過剰な嫌悪とかも合点がいく。大勢で鍋を囲むような読み方の利点ですね。

 

ハイジ

新訳版 ハイジ 1 (偕成社文庫)

新訳版 ハイジ 2 (偕成社文庫)

 

もちろん塾の課題です。

〝多様な読みができる作品〟と言われてもなあ……だったのですけれども

 

 

世界を動かなくするために

 

 『アルプスの少女ハイジ』と言えば、干し草のベッドに丸窓から見える星、ヤギのミルク! 今回『ハイジ』(1.2. 偕成社文庫 ヨハンナ・シュピーリ作 若松宣子訳)を再読してみて、干し草のベッドと丸窓の星とヤギのミルクにワクワクは変わらなかったけれど、あとはなんだかな〜の嵐である。私のアルプスは暴風雨圏内に突入だ。今、大人がこの本を読む意義、がとんと浮かばない。困った。

 以前インドネシアの小さな島でダイヴィングで一緒になったスイス人女性(アラサー)が「スイスの男は保守的で、女は結婚したら家庭に入るのが当然と思っている」とこぼしていて、へーっスイスってそうなんだと意外だったけれど、そう語る彼女のバンガローの狭いベランダのテーブルには、小型スピーカーだのコーヒー沸かしだのなやかやがびっしり並んでいた。「こうやっていろいろ持ってきておけば、家にいるのと同じように快適に過ごせるでしょ」と当人はご満悦だったが、私は内心、家にいるのと同じように過ごしたいなら旅に出なくていいだろ、こういうのこそ本質的保守だろ、なんて思ったりして。

 で、なんか『ハイジ』にはこの〝世界を動かなくする / 保守〟があふれてる。(立派な保守の方、すみません。)まずはおじいさん。ほぼ自給自足生活。この暮らしぶりなら、近隣で原発事故でも起こらない限り、何があっても生きて行ける。誰にも迷惑かけてない。無愛想なだけだ。ほっといてやれよ、同調圧力かけるなよと思う。じいさんもあっさり改心するなよ。骨がないなあ。

 次にハイジ。天真爛漫ないい子だったのにねえ。都会の絵の具(ばあさんのキリスト教)にどっぷり染まって、イヤなやつになった。ペーターを震え上がらせた恫喝アルファベット教育に、<あたしたちは毎日神さまにどんなこともお祈りしなくちゃいけないの。だって、あたしたちは神さまのお恵みで生きていることをちゃんとわすれていませんって、伝えなくちゃいけないもの。><お祈りがかなわなくても、神さまが話をきいてない、なんて考えてはいけないし、お祈りをやめてもいけないの。そうではなくて、こんな風にお祈りしないといけないの。神さま、神さまがもっといいことをお考えだと、わかっています。よく取りはからってくださるので、うれしいですって。>アルプスの少女は奴隷根性布教の先兵と化した〜。(キリスト教徒の方すみません。)

 そもそもこの物語では、金持ちはクララの父も祖母も知的で心が広く、貧乏人を見下げるどころか大盤振る舞いの、まったき善人として描かれる。<ワルモノ>役はよりよい仕事に就くためにハイジをおじいさんに押しつける叔母のデーテ、ゼーゼマン家の家政婦のロッテンマイヤー、侍女のティネッテ。今より上を目指す者と、富裕層の家で安定した職を得て、下を見下すようになった人たちだ。この構図、とても気持ちが悪い。しかも全員女かい。

 本書が放つメッセージは1.アルプスは山の暮らしは素晴らしい。2. 都会はダメだが、その都会を作った金持ちは立派だエラい。3. 貧乏から這い上がろうとする者、ほんの少し這い上がった者はたいてい根性が曲がっている。4. 貧乏人は日々神さまにありがとうごぜえますだと感謝して、金持ちの施しにも感謝して、身のほどを心得て暮らせ。

 ばあさんは私のあこがれの干し草のベッドを蹴散らし、屋根裏に本物のベッドを押し込んだ。ああ、腹が立つ。

 

じいさん、デーテ、ハイジをゼーゼマン家をカモにする詐欺師ファミリーと見立てた方や、都会から帰ったハイジが下らないキリスト教道徳をふりかざしたために、筋金入りの〝主義者〟であったじいさんの自我が崩壊した説など、ほんとにいろんな読みが出てきました。懇親会ではハイジとペーターがゼーゼマン資本でアルム・リゾート開発なんて妄想も出現。ネット上では〝ロッテンマイヤーさん萌え〜〟などというものもあるそうで、ネットってやつぁ。私の感想は上記の通りですが、この時代のスイスには興味が湧いたので、センセに教えてもらった本を買ってしまいました。また本増えた〜。

 

図説 アルプスの少女ハイジ (ふくろうの本/世界の文化)

アイヌと縄文

アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書)

塾の課題です。

これはもう先生に激叱られるかも〜とビビって提出しました。

 

猛烈に、残らない

 

 近年稀に見る苦悶読書。瀬川拓郎『アイヌと縄文』は、なんつーかー、列挙される事実が右から左へ抜けていく〜引っかかりません、するする。なので、知識もあまり残っていかないし、かといって、なんじゃこりゃつまらん!という怒りも湧かない。世の中にはこれにワクワクする人もきっといるのだろうなあ、ああ、私の頭が悪いのか、全部おいらが悪いのか、ジャンジャラジャンジャラジャ〜ン♪。(古いっ)

 それでもまあ、スタート地点が圧倒的無知なので、北海道に平和に暮らしていた人たちが、悪い和人に騙され差別されて隅っこに押し込まれた、という超低レベルのアイヌ認識、独特の衣装、楽器、木彫り、熊、鮭、入れ墨といったベタなイメージからは、少しは引っ張り出していただけたかなと。あざすっ。

 とはいえ、皮肉にもいちばん心に残ったのは <つまり縄文文化の巨大な土木遺産は(中略)集団が集団のために産みだした遺産であるという点で、縄文文化としての特色を示すものなのです。そしてこの遺産が、聖域や祖霊を祀る場という祈りや心にかかわるものであった点にこそ、本質的な意義を認めることかできそうです。縄文文化は「心の文明」といえるものなのです。> ここ、感動するとこでしょうか? 私は正直、気持ち悪かったです、「心の文明」。ほな、他の文明は何やねん。著者はその後しばらく、自分の言葉に酔ったかのように「心の文明」をしつこく繰り返し、私はゲロゲロ。話が縄文以降に移って、さすがに出なくなったけど、結びにはまた絶対出すぞと思っていたら、今度は<原郷=縄文>がお気に入りの連発で、忘れられちまった「心の文明」。なんだかなあ。

 あと凡例とか一切なしで平気で(小杉二〇一一)とかはさんでこられるのも、えーっ何これ、何これ、そりゃそのうち気づきますけど、こういう無神経、ストレスだわー。揚げ足取りかもしれませんが、こんなとこで読者いらいらさせるなよー、と私は縄文の中心で叫びたいわ。

 曲がりなりにも書評をめざすなら、なぜ本書の記述が私の中を素通りしてしまうのかの分析を試みるべきなのでしょうが、いかんせん、再読はプラスチックの塊を食えと言われるようなもので無理。強いてひとつ挙げれば〝縄文ひいきの引き倒し〟がかえって、交易などの興味深い事例の魅力をそいでしまう点でしょうか。で結局、縄文もアイヌもいまいちよくわからない。ヒロキの中に残ったのは<縄文は「心の文明」>という気色悪いキャッチフレーズだけであった……というのは嘘で、孤立語の話はちと気になりましたけれども。

 

 意外や先生は、激辛、迫力あり、興味のない本を下手に救っていないのは天晴れとのご評価。都合の悪い部分は割愛しましたが、〝天晴れ〟いただき〜。他の受講生の方の評判もけっこうよかったです。人の心はわかりませんね。あ〜も〜わからん。わからん。

からゆきさん

からゆきさん 異国に売られた少女たち (朝日文庫)

 

 塾の課題です。

 

そのことばにさわっていたい  

 15年ほど前、ボルネオをひとり旅した。オランウータンの保護施設を見学するため訪れたサンダカンで日本人女性と中国系マレーシア人A君のカップルと知り合い、A君にはディープなチャイニーズマーケットで毎朝朝ご飯をごちそうになる(めちゃくちゃ美味しい!)ことから始まって本当にお世話になったので、彼の副業である観光ガイドを1日お願いすることにした。私のリクエストで日本人墓地にも出向いた。

 日本人墓地は海を見下ろす高台の斜面にあった。百以上の墓標が並んでいたと思う。『サンダカン八番娼館』には確か、<墓はすべて日本のほうを向いている>と記されていたが、方向音痴の私にはそれが日本の方角かどうかはわからなかった。ただ、墓が全部海の方を向いていたのは確かだ。花屋などほとんどないサンダカンでA君がなんとか調達してくれた花束を抱え、私はひとつひとつ墓標を見てまわり、手を合わせ、ところどころに花を置いた。ただ、明らかに男性の名前と思われる墓は飛ばし、手も合わせなかった。女衒の確率が高いと思ったからだ。スピリチュアル系なA君からは「声が聞こえても絶対に答えてはいけない、連れて行かれるから」と注意されていたが、鈍いせいか私には何も聞こえなかった。それでも、今思い出しても、熱帯のまぶしい日差しの下で朽ちかけた墓地は、しんしんと寂しかった。

 森崎和江『からゆきさん』(朝日文庫)には<淫売>、<醜業婦>、<国家の恥辱>と目に刺さる罵倒語が並ぶ。それに較べて<からゆきさん>の響きはとてもやさしく柔らかい。<そのことばにさわっていたい> という森崎の印象的なつぶやきは、石牟礼道子のたたずまいにも通底し、すっくと立ち上がって、女たちに寄り添う立ち位置を明示する。

 <客とるのがはじめての子どもは、たいてい泣きますばって、これがまた、たまらんちゅうて、水揚げを何回かします。> こんなえげつない記述に触れると、人間とはどこまで浅ましいものかとうんざりするが、卑しまれ蔑まれるのは売る側であって、決して買春ゲス男たちではない。それでも、ただ踏みにじられているだけではなかったからゆきさんたちの多様なありようが紹介されていく。

 森崎は中国人クーリーや朝鮮人女性たちの辛苦にも思いを馳せ、世界情勢や国策といった大きな視点も提示する。ただ、ひとつどうしても引っかかるところがあった。各地に妾を囲い、その女たちをまとめてだまして密航させる男のことを <男冥利の役割> とするりと書く。決してそんなことを<男冥利> などとは思わぬ男性の存在を、ロマンティストの私は信じているぞ。さらに言えば <女も年食えば内面夜叉である>&<おなごも男も、子持たんものは心はやみです>って、年食って子を持たぬ女である私の心は、闇夜叉か。<その言葉にさわっていたい>の官能性と、粗雑な断定をぽとぽと下す鈍感、さらには狂言回しとも言うべきからゆきさんの娘=綾さんの芝居がかりが同居して、複雑な味わいの『からゆきさん』である。

 

 先生から「墓はすべて日本に背を向けている」の間違いというご指摘があり、やはり実際にサンダカンの日本人墓地まで出向いた本多勝一が苦言を呈していたとのことです。そりゃ日本の方角は確かに墓の背後だが、海に面した傾斜地で、海に向かって墓が並ぶのは当たり前だろうと。その通り。しかも墓の背後は木立というかジャングルというかボルネオですから緑むんむんなわけで、山崎朋子のこじつけもはなはなだし。

 それはさておき、森崎和江という人もようわからん。ただ『苦海浄土』の余韻も残る中、ゴールデン・ウィークに天草・島原を訪ねてみるという人を羨ましく思いました。

苦海浄土

苦海浄土 全三部

塾の課題なんですけど、一生に何冊も出会えないレベルの本で

けれども締め切りっちゅうもんもあって、あたふたと書いてしまいました。

ま、素直な感想ってことで。

 

パラダイス・ロスト

  石牟礼道子『苦海浄土』(藤原書店 2016)を読み始めてほどなく、心にゆらゆらと浮かぶのは意外にも 〝美しい〟という言葉だ。水俣病患者といえば、四肢を苦しげにねじ曲げ、顔を引きつらせたイメージだが、本書において〝患者〟という一般名詞ではなく、山中九平、坂上ゆき、江津野杢太郎などの固有名詞で立ち上がる人たちからは、過去の幸福な記憶の靄が立ち昇っている。

 発病前の患者たちの生活に、以前読んだ『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(岡檀著 講談社 2013)を思い出した。これは徳島県南部のある小さな町が、全国でも極めて自殺率の低い「自殺“最”希少地域」であるのはなぜかを調査した記録だが、その町で人々は、夕方仕事を終えるとひとっ風呂浴びて、近所の気の合う仲間とたわいない話をしながら酒を飲み、とっとと寝る。それは『苦海浄土』第六章の <前庭をひらいた家のどこかの縁に腰かけて、男たちが随時な小宴を張っている。(中略)通りかかったものは呼び込まれる> 光 景、そんな宴の肴を存分に採れるよう <漁師たちが〝わが庭〟と呼ぶ> 不知火海の <〝庭〟のへりに家を建て、家の縁側から釣り糸を垂れ> ることを念願とする生き方と通じ合う。特段立派でなくていい、成長しなくていい、自分探しなどしない……思えば資本主義にとって都合の悪い静的な世界観だ。

 その世界の豊かさは、杢太郎少年の文字さえ読めぬ祖父の矜持からもうかがい知れる。< 海の上におればわがひとりの天下じゃもね。> <昔から、鯛は殿さまの食わす魚ちゅうが、われわれ漁師にゃ、ふだんの食いもんでござす。してみりゃ、われわれ漁師の舌は殿さま舌でごさす。> <沖のうつくしか潮で炊いた米の飯のどげんうまかもんか、(中略)そりゃ、うもうござすばい、ほんのり色のついて。かすかな潮の風味のして。> 沖のうつくしか潮で炊いた米の飯を私も食べてみたいが、うつくしか潮は、金が命の某社の廃液で毒と化した。

 藤原書店版の扉で石牟礼道子は、自分が描きたかったのは希有の受難史ではなく、<海浜の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである> と述べている。<まるで上古の牧歌の中に生きていた人々と出会うような感じ> であったとも。これだけのものを〝強欲〟が奪い、水俣病患者たちは水俣の経済発展を阻む要因として嫌悪された。

 <ユーキ水銀で溶けてしもうた魂ちゅうもんは、誰が引きとってくるるもんじゃろか。> ジャーナリズムに〝ミルクのみ人形〟と名づけられた杉原ゆりの母はつぶやく。<死とはなんと、かつて生きていた彼女の、全生活の量に対して、つつましい営為であることか。>坂上ゆきの解剖に立ち会った石牟礼道子は綴る。

 「第二部 神々の村」の冒頭は <杢太郎の爺さまが死んだ。> 読まねば。

 

 私は日々、亡くした家族を思って生きているので、日々、死とはなんと、かつて生きていた彼の、全生活の量に対して、つつましい営為であることか、を実感しています。『苦海浄土』は実に普遍的な書物です。