お風呂本『靖国』を2階に置いたまま忘れていて
手近にあった『修行論』でとりあえずその日は間に合わせようと
したらおもしろすぎて
『靖国』を押しのけお風呂本の地位をゲット。
ま、そんなたいした地位ではないが。
武道で修行でわたしにはあんまり関係ない話ではと思っていたら
さすがウッチー、もっと普遍的なお話でございました。
たとえば「Ⅰ 修行論——合気道私見 第2章 無敵とはなにか」
そもそも、武道家の身体能力をもっとも確実に損なうのは、加齢と老化なのである。だが、かつて死神に走り勝った人間はいない。だからもし、加齢や老化を「敵」ととらえて、全力を尽くして健康増進とアンチ・エイジングに励んでいる武道家がいたとしたら、彼は生きていること自体を敵に回していることになる。
(中略)
「天下に敵なし」とは、敵を「存在してはならないもの」ととらえないということである。そういうものは日常的景色として「あって当たり前」なので、特段気にしないという心的態度のことである。
風邪をひいたら、「生まれてからずっと風邪を引いていた」かのようにふるまい、雷撃に打たれたら「生まれてからずっと雷撃に打たれ続けてきた」かのようにふるまい、子どもを亡くしたら「生まれてからずっと子どもに死なれ続けてきた人」であるかのようにふるまうことができる。そのような心身のモードの切り替えができる人にとってはじめて、天下は無敵である。
なんかシビレません?
「Ⅱ 身体と瞑想 (2)武道からみた瞑想」では多義的なものに向き合うときの心得として
先行する解釈は、後に出てくる、より包括的で、より整合的な解釈に、部分的に妥当するローカルな法則として生き残ることをめざせばよい。だから、修行者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
どうとでも取れる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。
多義的解釈に開かれたテクストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテクストに対する敬意の表現ではなく「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身にすぎない。
うぉぉ、厳しいお言葉、肝に銘じます。
他にも〝額縁論〟など、ものを考えるにあたっての根本的なところをグリグリされます。
で、ぐるりまわって、合気道、習いたくなるよ〜。
うちから一駅の吉祥寺の月窓寺にはなんと、多田先生(内田樹氏の師匠)の道場が!
この年から合気道……それもまたよし、かな?
ダイヴィングの海中世界に加えてまたひとつ、わたしの世界が広がるのでせうか。
始めるとしてもヴァカンス後の4月からだろが。
とりあえず友だちの f9 ちゃんを誘ってみよう。