タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

あのころはフリードリヒがいた

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))

 

月に1度の塾の今月の課題はナチ政権下のドイツのユダヤ人迫害を描いた児童文学。

私が提出したのは ↓ です。

 

明日は我が身のフリードリヒ

 

 中学生の頃、自分はひょっとしてアンネ・フランクの生まれ変わりではないかと思っていた。恐山のイタコに頼めばアンネと話せるかなと、考えたりもした。大阪の中学生がそんな目的で青森に行けるはずもなく、ズーズー弁のアンネとの対話は果たせなかったし、今はさすがに自分がアンネの生まれ変わりとも思わないが、スマホにはアンネのアプリ(あるんです、そういうものが)を入れているし、隠れ家跡の記念館へ行くことを想像しただけで泣きそうになる。

 ハンス・ペーター・リヒター『あのころはフリードリヒがいた』は、アンネとほぼ同世代のドイツの少年の物語だ。語り手の少年と家族の名前は出てこず、彼らが個別の誰それというより当時の一般的なドイツ人であることを感じさせる。また、物語は登場人物たちの心理に踏み込むことはせず、語り手の少年の目を通して当時の状況の変化をカメラのように淡々と映し出していく。

 父が失業中の貧しい少年の一家は、ナチの政権奪取とともに父の入党で生活が上向き、一方同じアパートである程度余裕のある暮らしを送っていたフリードリヒの一家は、ユダヤ人ゆえに父は職を追われ、暴徒の襲撃で住処を破壊されて母は亡くなり、ついに父は収容所送り、フリードリヒは爆撃のさなか、防空壕にも入れてもらえず命を落とす。

 フリードリヒが学校を追われる際に、「ユダヤ人は人間だ。われわれとまったく同じ人間なんだ!」と説いた教師が、その言葉の最後を「ハイル ヒトラー!」で締めくくる場面、語り手の少年が大きな波に呑み込まれるように暴徒のひとりとなり、自ら積極的にユダヤ人寮を破壊する場面に、時代の「空気」の恐ろしさを思い知らされる。

 「ユダヤ人」というだけで仕事を奪われ、暴力にさらされ、映画も夜間の外出もベンチに自由に座ることさえ許されず、果ては強制収容所送り。なんと野蛮なナチスの所業。と怒るより、わたしは怖くなった。なにしろわたしたちは今、大臣がデモ参加者を「テロリスト」と呼んでもお咎めなしの国に暮らしているのだ。特定秘密保護法共謀罪集団的自衛権だ。ねじれ解消、行け行けドンドンだ。「ユダヤ人」のレッテルが「テロリスト」やら「非国民」やらに貼り替えられ、フリードリヒの身に起こったことがいつ自分に振りかかってくるやもしれない。リアルにアンネだ。

 

 中学時代に『アンネの日記』を耽読していた頃には、日本もこんなふうになってしまうかも、なんて不安は、これっぽっちも感じなかった。今やひとりひとりが必死であがかないと、ほんとにヤバい。で、徹底したマキャベリズムでもって、都知事選の候補を選ぶとしたら、誰がいいんだろうねー。絶対勝たなきゃダメだもの。ま、誰もわたしに選ばせてくれるわけじゃないけれども、坂本龍一しか浮かばないー。