タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

ゴーマニズム宣言SPECIAL 新戦争論1

ゴーマニズム宣言SPECIAL 新戦争論1

 

 

塾の課題です。

南の島でこんなドス黒い本を読んだ私は可哀想。

 

 

表現者としての退廃

 

 私の涙は安い。何にでもほいほい泣くのだ。浅田次郎は読んだことがないが、読めば泣くのかもしれない。高校生のとき、どちらかと言えば嫌いだった麻丘めぐみレコード大賞最優秀新人賞を取ったときにもらい泣きしたのには、自分でも驚いた。若い頃からすでに、涙腺のネジがゆるかった。

 そんな私なのに、小林よしのりゴーマニズム宣言SPECIAL 新戦争論1』の最大の泣かせどころ「第14章 国民の手本、少女学徒隊」には一滴の涙も出なかった。〝戦場の花と散ったときは、戦死扱いで、軍人と同様に靖国神社へ行けるんですって! ほんとうによかったわ。ほんとうによかったわ。〟、〝私たちの卒業証書は靖国神社への入場券になる〟こんな計算してる奴、ヤじゃない? 長じれば報国婦人会とかで非国民摘発に躍起になりそうだ。引用とはいえ〝女子学徒のなかでも優れて朗らかで、思いやりが深く、人々から天使のように親しまれていた〟姉妹が真新しい制服で化粧して、一足お先に失礼します、と自爆って、ここまで類型的というか、類型以前のベタな美談を堂々と押し出されると、涙腺ゆるゆるオバさんでさえ、さすがに泣けません。っつうか、二度とこういう子を存在させたくないと思う。国のために嬉々として死にたがる子なんて、いない世の中のほうが絶対にいい。

 ところが著者は自分の書いた話に〝10代の少女が〟と感動しきり。仮にもギャグ・マンガ家として、世界のタガをはずす者として世に出た男がこの体たらくだ。表現者としての退廃は、キラキラきりりっの皇国少年少女や「英霊」と、〝残虐な〟韓国軍、中国軍、作者と敵対する論客などの毒々しい絵柄の差にも如実に現れている。ギャグ・マンガの誇張の技法が、単純な善悪、正誤二元論の主張とピタリ重なってしまう。

 〝侵略戦争を肯定することは絶対に許されない!〟と主張する一方で、〝元々住民が戦闘に参加していることが違法なのだ。子供だろうと、女だろうと、老人だろうと、民間人と思って逃がしたら、とんでもない軍勢を連れて襲撃してくる〟などと平気で書く。侵略でなかったら、専守防衛だったら、こんな事態は起こるはずもない。

 歴史に学んで天皇英霊が大好きな小林は、異文化なんぞにはさらさら興味がないのだろう。お国のために滅私奉公。その先へ向かう視線はない。日本さえよければいいのだ。日本兵をたくさん殺したアメリカ人は、アメリカではピカピカの英霊だ。でも、敵の英霊はもち尊敬しないよね。そうやって、世界中が自国の英霊を顕彰して、「敵」と刺し違えて死ぬ覚悟で、どんな素晴らしい世界が出来上がるのか?

 あんたの〝公〟はちっちゃいよ。愛国心とかいうなら地球を愛せ(by ジミ・ヘンドリックス)。

 

 さらにつけ加えるなら、小林は日本が侵略されたらゲリラを組織して戦うとも言っている。「敵」のゲリラ戦は「違法」だが、「愛国」のゲリラ戦は「正義」なのだろう。

 課題の提出直前に、刊行されたばかりの『日本の反知性主義

日本の反知性主義 (犀の教室)

内田樹が書いていることが、まさにゴー宣そのもの、との指摘が家庭内であり

読んでみて唸った。

 

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。

 (原文では傍点の部分を、このブログには傍点の機能がないようなので下線としました。)

 

「お言葉」を垂れるのみで異論に聞く耳持たずの小林は、気に入らない相手を「サル」と呼び、知的優越を誇示したつもりでいる。『日本の反知性主義』で高橋源一郎も書いているが、私が小学生の頃も「アホ!」と人を罵ると「アホ言うもんがアホなんや!」と言い返されたものだった。「サル」、「サル」言ってる小林こそ、まったきサルである。