タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

或る女

或る女 (新潮文庫)

 

前回の塾の課題です。

今日はもう塾の日だっていうのにね。

 

 

全身肉欲恋愛家

 

 有島武郎『或る女』は、小説の全体が主人公の葉子がアメリカへの旅で過ごした船室さながら、閉塞感と不快な湿気に満ちている。

 男を操るタクトと類稀な美貌を誇る葉子は常に周囲の耳目を集め、必殺の〝左手を上げて——小指をやさしく折り曲げて——柔らかい鬢の後れ毛をかき上げ〟(p.28)る姿態で、どんな男も悩殺だ。しかし、そもそも登場の時点から、葉子は出口なしの状態にある。駆け落ち同然の結婚から、わずか2ヶ月での離婚、極秘出産、両親の死、そして家名を守るために強いられた再婚のための渡米。大海原へ、広い世界へ出て行くはずの船旅も、船という閉ざされた空間で息苦しい人間関係が展開する場となる。

 どん詰まりの葉子の突破口はもちろん、男だ。彼女は船中で、今までの自分の取り巻きとは異質な野蛮系の事務長、倉地という「運命の男」を見つけてしまう。そして必然のごとく肉体関係を結ぶ。葉子の恋にプラトニックの文字なし。彼女の男への思いは常に、肉欲とセットになっている。日本文学史上初の潔い、性欲剥き出しヒロインかもしれない。

 葉子と倉地はずぶずぶと互いに溺れ、周囲に関係を気づかれてもぬけぬけと白を切る。挙句は船がアメリカへ着いて婚約者の木村が迎えに来ても、病気を口実に〝何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪辣な手で思うさま翻弄して見せるのを眺めて楽しむのが一種の痼疾のようになった〟(p.253)葉子。この女にして、この情人あり。悪にギラギラと輝くこのあたりが、葉子、倉地のいちばんの名カップルぶりかもしれない。

 結局アメリカで下船もせずにともに日本へ帰ったふたりだったが、倉地を妻子から奪い、完全に我が物とした、ついに幸福の頂点に上り詰めたと葉子が感じたそのときから、転落が始まる。〝平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑おうとする、葉子の旧友に対して、(中略)腐っても死んでもあんな真似はして見せるものかと誓うようにあざけったその葉子は、洋行前の自分というものを何所かに置き忘れたように、(中略)旧友達の通ってきた道筋にひた走りに走り込もうとしていた。〟(p.369)

 凡庸な守りに入りながら、一方倉地との愛欲生活をその狂躁の頂点のまま維持し続けるという不可能を不可能と認識できない全身肉欲恋愛家葉子は、ご自慢のタクトも裏目、裏目、心も体もボロボロになっていく。わずか一年のあいだに麗人が痩せさらばえた狂女へと痛ましく枯れ果てる。〝自分の生まるべき時代と所はどこか別にある。そこでは自分は女王の座に座っても恥ずかしくない程の力を持つ事が出来る筈なのだ。〟(p.189)と渡米前には考えていた葉子なのに、結局ひとりの男にのめり込むしかなかった、のは時代の壁か。時代の子である彼女の限界か。

 姉の陰画のようにひっそりと、どこかじっとりと控えていた愛子が、いつの間にか美しく花開いて、姉を圧し、姉を捨て去った、その後の物語もまた気になる。

 

 前回、先生から〝ほめ殺し〟の宿題をいただいた私でありましたが、葉子、殺すも生かすもビミョー。つか、痛ましい。

 日本の近代文学で珍しくがっつり〝個〟を持った女主人公、ってことなんですけど、正直〝個〟ってこれかいな、と。ほならばもうひとり、と次回は徳田秋声『あらくれ』。いつの時代になったら日本文学に魅力的な女主人公が登場するのか、こうなったら徹底追跡しかない、なんちゃって。