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タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

忘れられた日本人

忘れられた日本人 (岩波文庫)

塾の課題で初めて宮本常一を読みましたとさ。

 

歌とエロ 

 

 編集者向けの「使ってはいけない用語集」、〝百姓〟の次が〝水呑百姓〟で、普通気づくわと笑ってしまったことがある。今やほぼ差別用語&死語と化した〝百姓〟を愛情と敬意を持って連発するのが、宮本常一『忘れられた日本人』だ。

 飢饉に備えて備蓄を怠らず<一生うまい米を食うことは>ない、<ラジオも新聞もなく土曜も日曜もない、芝居も映画も見ることのない生活>の中で、百姓たちの楽しみは歌であった。生涯身を粉にして働き、慎ましく暮らした著者の祖父の<たのしみは仕事をしているときに歌をうたうこと>だったし、<生涯めとらず、すきな歌をうたいのんきに仕事をして一生を終わった>、<田植え時期になると太鼓一つをもって方々の田へ田植え歌をうたいにいった。盆になれば踊場へ音頭をとりにいった>祖父の祖父の話など、いかに歌が百姓の生活を彩っていたかがよくわかる。

 その歌と並び、密接につながってもいる数少ない娯楽?のもうひとつが「性」で、歌垣で未婚、既婚の区別なく男が女に体をかけさせる地域もあれば、夜這いのハウツーや五箇条の御誓文の意味を取り違えてのカカヌスミ、 <この時はらんだ子は父なし子でも大事に育てた>という乱行の風習なども語られる。

 また意外なのが<昔にゃァ世間を知らん娘は嫁にもらいてがのうて>と、若い娘ばかりでお金も持たず、いく先々で働きながらの長旅。そこでは恋も芽生えるし、故郷へ帰れば<旅の文化>をひけらかすという、まるでワーキング・ホリデイみたいな女子活動だ。

 そして自由といえば土地に縛られた百姓とは対照的な流れ者の世界。若い頃、奔放な旅をして世間師と呼ばれた男たちと並んで、著者に〝土佐源氏〟と名づけられた、元博労の盲目乞食爺の色語りが強烈な印象を残す。どうやら性病で盲目になり、30年前!から最最底辺の生活を送る爺さんは、 主にふたつの甘美な色事の思い出に浸って生きている。

 そのふたつに共通するのは、どちらも相手が身分違いの美しく優しい既婚婦人であること。村落共同体に属していなかった爺さんは夜這いすることもかなわず、幼少期を除けばもっぱら後家相手に性体験を重ねていたのだが、このふたりだけは特別な道ならぬ恋であった。

 この恋を甘美にしているのは、なんといっても相手の社会的身分、役人の嫁、庄屋の妻であることで、ふたりがその身分を捨て、夫とは違って優しいこの博労と駆け落ちでもしたなら、たちまち魅力は色褪せ所帯染み、やがて捨てられただろうことは想像に難くない。これが男女が逆で女の身分が低く男の身分が高ければ、結婚にこぎつけぬ限り〝遊ばれた〟だけであり、これまたありふれた話となる。結局、爺の色語りの果てに残るのは、ちょっと優しくされると身を許す、あの嫁さんたちはよほど孤独で不幸だったのだなあ、夫はろくでもねえなあ、という思いだ。

 最後に私が採集した話をひとつ。三重県の山奥のある地方では女性器の俗称が〝おたべ〟であった。ある人が大学進学を機にその地方から京都へ移り住んだが、都大路の看板にでかでかと〝おたべ〟と書いてあるのを見て驚愕したという。(注)

 

注 : 〝おたべ〟は生八つ橋で餡子をくるんだ京銘菓

 

 70年代になると夜はみんなテレビを見るようになって、宮本常一は夜の調査ができなくなってしまったという話が印象的でした。受講生のひとりの方の指摘にもあったのですが、そうやってテレビを通じて日本全国が標準化されていってしまったのだなあと。