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タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

夏の花 原民喜

 原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

 

塾の課題です。

ちょうど8月15日近辺に読んでいて、民喜が民忌、な心持ちでした。

提出したものは↓

 

羊羹をおくれ

 

<私は自分が全裸体でいることを気付いた>

 原爆文学の嚆矢とされる原民喜「夏の花」。パンツ一つで厠にいた語り手は、おそらく脱糞中だ。〝災害に遭ったとき、××だったらいちばん困る〟の〝××〟に真っ先に思い浮かびそうな状況で、彼は人類史上初の原爆投下の瞬間に遭遇する。そして気がつけば全裸。圧倒的な悲劇に遠慮なく割り込む喜劇を、笑うに笑えない。

 被爆直後から、作家は目の前にあるものを写生するように、周囲の悲惨な光景を淡々と描き出していく。それだけになおさら、<だらりと豊かな肢体を投げ出して蹲っている中年婦人>の肉感や、<燻製の顔をした、モンペ姿の婦人>、<次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり>、<首実検>といった鋭角的な言葉が鮮烈だ。

 また一方で、<赤むけの膨れ上がった屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置き換えられている>と、いわゆる原爆文学的なイメージをはみ出す描写に、<妖しいリズム>、<痙攣的の図案>といった言葉が重ねられる。そして、<超現実派の絵の世界ではないか>まで行き着くと、<この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のように感じられる(中略)「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮かんでいた。>という被爆以前の語り手の予感と響き合い、作家の地の色がのぞく感がある。

 「夏の花」の後日譚である「廃墟から」。

<小さな姪はガーゼを取り替えられる時、狂気のように泣喚く。/「痛い、痛いよ、羊羹をおくれ」/「羊羹をくれとは困るな」と医者は苦笑した。>

 蚊帳の中にいないと、原爆による火傷の傷口には蝿が吸着き蛆が湧く。幼い女の子が、すさまじい痛みに耐えたご褒美に、今はめったに食べられぬ甘い美味しい羊羹をおくれと訴える姿は、読み手を微笑ませつつも、現実の重みと強さを持って、いじらしく切なく迫ってくる。

 当初「原子爆弾」であった題名が、占領軍の検閲に配慮して「夏の花」と改題されたのは、作品にとって幸せだったと思う。語り手が前年に喪ったばかりの妻の墓に手向けた<黄色の小弁の可憐な野趣を帯びた>〝夏の花〟は、原爆が圧し潰し焼き尽くしたすべての小さなものたちに重なっていく。

 

 今になって気づいたのですが、広島が舞台でありながら、5歳児でも「わしは〇〇じゃけん」とかって話すという、あの方言がゼロ。原爆投下の大混乱のなかでみんな標準語を話しているという、ある種シュールな光景が出現しています。私の中にあった〝民喜すかした男説〟が裏付けられた気がします。まあ、高等遊民だものなあ。これが大阪が舞台の話だったら、みんなすぐ変だと気づくと思うんですけど……。

 あ、でも、やたらと出てくる兵隊たちは全国区か。このやたらと兵隊が出てくるのは広島が軍都であったからで、アジアには〝原爆は天罰〟と感じている人たちもいるのだという厳しい指摘が、受講生の方の中からありました。

 あと民喜の死に関して、「奥さんが亡くなったからって死ぬかなー」とおっしゃった方がいて、驚いた私は、「私死にたいですけど」と言いそうになりました。

 高等遊民であった民喜は困窮して吉祥寺-西荻間で鉄道自殺。 私はこの人が亡くなった場所の上を何千回も電車でゴトゴト踏みつけているじゃないか。

 ふたりがひとりになるっていうのは100が50じゃなく、30、20、10になっちゃうことだと実感しています。それでも食べていくだけのお金があれば、本を読み、好きなものを書いて、民喜も死にはしなかったかもしれません。けれども、元来自活と無縁な人が、唯一世界への窓であったような妻を亡くして、それでも生きていくのだと、がむしゃらにお金を稼ぐ気になれるでしょうか。もういいわ、と思うよなあ、民喜。

 私は鉄道自殺は痛そうだし、人に迷惑かかりすぎだし、スプラッターだし、いやですけど。