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タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

世界の果てのこどもたち

世界の果てのこどもたち

 

先月の塾の課題です。

 

言葉と戦争

 

  たとえば登場人物のしぐさひとつで、すっとキャラクターが立ち上がるような、そんな小説があるけれど、中脇初枝『世界の果てのこどもたち』(2015年 講談社)は違う。なんというかもっと、よく言えば親切、悪く言えば説明的。児童文学的、なのかもしれない。わかりやすい分、余白が少ない。

 本作では出自を異にする同世代の3人の少女の戦中戦後、文字通り波瀾万丈の人生が描かれる。その軸になるのは〝言葉〟だ。朝鮮人の美子は皇国臣民となるべく自ら進んで朝鮮語を捨てて日本語を学び、戦後日本へ渡ってから、在日としての誇りを培うため母語を学び直すことになる。日本の寒村から満州に渡った珠子は引き揚げの混乱の中さらわれ売られ、生き延びるため、中国人養父母の愛情に応えるために、記憶から日本語を抹殺する。横浜の裕福な家庭に育った茉莉は空襲で家族を失い辛酸を舐め、ひもじさの中で「ギブミーチョコレート」と叫んで、鬼畜米英が実は憎めぬ<ハローのおじさんたち>であることを知る。

 ふたりの教師も印象的だ。ひとりは満州の学校の鈴木先生。<朝鮮人だったのでときどき日本語を間違えることがあり>、子供たちに笑われても屈託なく<「先生も一生勉強します。きみたちと勝負します」>と言って、生徒たちから愛されていた。もうひとりは美子が日本で通った朝鮮学校の日本人教師で、<赴任当初、谷口先生は朝鮮語が全くわからなかったのに、何週間かすると、子供たちが朝鮮語で吐いた悪態を叱り、朝鮮語で板書をするように>なって、<「先生だって、みんなと同じだ。知らないことはなんでも勉強しなきゃだめなんだよ」>と、これまた当然大人気。あまりに相似形で小説だもの感が漂ってもしまうけれど、慕われる教師ってこういうものか、とも思わされる。

 そんなふうに感じるのは、私が年末から突然個別指導塾で働くことになって、100%正解の人でないといけないプレッシャーにさらされているからかもしれない。その上、英語を教えれば「英語なんかいらいない。日本から出ない」と言われ、現国の入試問題にブチ切れた受験生からは「日本語なんかいらない、意味ない、何の得もない。英語にしちゃったほうが便利」と言われ、「母語を失うことは文化をそっくり失うことだよ」なんて言っても「はあぁ?」で「いらんわ、そんなもん」でとっさの応戦敗北。

 日本語を捨てることでしか生きられなかった珠子が、中年になって中国残留孤児として日本に帰国し、日本語を学び直す、その一生かかっても学び切れないという切ない思いを、現国に怒る受験生にも知ってほしい今日この頃です。 

 

 たとえばつぶさに描かれる〝引き揚げ〟の実態など、読み応えたっぷりの小説なのですが、一方で、もうそのおにぎりの話はいいよ、と言いたくなる安直さ(読めばわかります。むしろこの〝おにぎり押し〟に感動、の人も多い)や、なんで〝世界の果て〟なんだ?(失礼ちゃう?の意見あり)、あの終わり方はなんだ? などなどの疑問も。