タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

野火 again

野火(新潮文庫)

塾の課題です。

 

とりあえず、神で間に合わせておく  

 

 大岡昇平『野火』を最初に読んだときは、兵士失格病人未満と分類された主人公が、軍隊という激烈な抑圧装置からはじき出された、その絶望的状況の中での開放感が印象的だった。しかし、今回再読してみると、そんなことよりもう、なんだかへんてこなのだ。

 主人公は最下層の兵士だが、とっても理屈っぽい。インテリである。冒頭、自分を殴った上官の心理をクールに分析してみせるところからもう、飢えて病気でも知性絶好調。<兵士は一般に「わかる」と個人的な判断を誇示することを禁じられていた> なんて、さらり小粋に日本軍の体質を示してくれる。病院を追い出された、行き場のない兵士たちの中で、弱虫と腹黒が身の上話でしんみりする場面も、主人公の知のフィルターを通すと <若い気の弱い女中の子が、シニックな女中強姦者の養子となった> と片なしだ。

 そもそもインテリ主人公の教養ははっきり偏っている。和風調ムードがまったくない。ひたすら西洋かぶれだ。エピグラフが <たとえわれ死のかげの谷を歩むとも>(神さまが守ってくれはりますねん)で、小説を結ぶ言葉は<神に栄えあれ>。途中にもばんばん〝神〟は出てくるけれど、これはキリスト教小説かと問われれば、なんか〝ジーザス〟ってカタカナで書いたTシャツを着ている人みたいな小説と言っておきたい。

 思春期に性欲への罪悪感から一時キリスト教にかぶれた飢餓&病人(なのにやたらと移動する)主人公(推定年齢30代前半)は幸運にもたっぷり食糧のある場所にたどりついたのに、下の町の〝十字架〟検証のためにのこのこ出かけていく。その後も〝塩〟だの〝野の百合〟だの露骨なキリスト教アイテムが頻出し、神本体も暗躍する。主人公が人肉を食べようとするときにストップをかけるのが神の役目だ。(うすうす勘づきつつ食べるのはOKらしい。)そして、殺したての人肉を前に嘔吐した主人公は <私はもう人間ではない。天使である。> とえばる! 食べない私、食べずにすんだ私は、神に愛された、神に守られた私、というわけだ。この主人公の理屈では。

 最初に信仰があったのではなく、人肉食回避のための神 / キリスト教利用。手持ちの道具で間に合わせてやりくりする、一種のブリコラージュかもしれない。

 最後は唖然の狂人オチ。しかし、おおー神がー、とか大仰なところ以外はさして狂人めいてもいない主人公である。人肉に手を出す寸前まで行ったのは、正常な私ではない、狂気ゆえ、という理屈か。<医師は私より5歳年少の馬鹿である。> まんまと騙したか。

 殺して食べるのはさておき、おなかがすいて死にそうなら、死んだ人の肉は別に食べてもいいんじゃないかい、と思う私である。

 結局我らが主人公は、兵士として戦地に赴き、犬一匹、フィリピン人女性ひとり、戦友ひとりを殺した。戦没者のうち餓死者が6割以上という戦争は、そういう戦争なのだろう。

 

 人肉食にこれだけこだわっておいて、罪もないフィリピン女性を殺したことにはなんら懺悔の気持ちはないのか、という意見も多かったけれど、この人肉、人肉の大騒ぎがむしろ、民間人を殺したことへの罪悪感を糊塗するための装置ではないか、なんて気もしてきたりして……へんてこな分、いろんな読み方のできる小説です。世間的にはそう思われていないんだろうけど。