タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

戦争は女の顔をしていない

 

塾の課題でした。

というか、前回の課題『同志少女よ、敵を撃て』を受けて、わたしが課題にしてほしいと先生に頼んだのでした。

 

 

世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ

 

 〝人間は戦争よりずっと大きい〟という章題でスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』は始まる。<ありふれた生活から巨大な出来事、大きな物語に投げ込まれてしまった小さな人々の物語> が綴られ <小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった> と語られる。本書を通じて大小の対比が繰り返される。

 まず驚かされるのは、女たちの多くが自ら熱烈に志願して戦場の最前線へ向かったことだ。それは〝革命〟という大きな美しい物語がまだ瑞々しく生きていた時代。〝祖国〟という言葉が輝いていた時代。貧しさからの解放の記憶が生々しい時代。ドイツに進軍した女性兵士が立派な道路や家、家具調度に驚き <どうしてこんなに良い生活をしている彼らが戦争なんかしなければならなかったのか> 理解できなかった、と語っているのが印象的だ。大きな物語に吸い込まれていった小さな人々。

 実際に彼女たちが体験した戦場とはなんだったのか。戦争は血、クロロホルム、ヨードの三種類の臭いだったと語る女性軍医、<雪の中では血の匂いがことさら強かった>という救護係の記憶。血の匂いだけには慣れることができず、戦地であまりにもたくさん血を見てしまったために、戦後身体が一切赤を受け付けなくなった兵士もいる。ある狙撃兵は戦争はなんでも真っ黒で、血だけが赤い、と言う。またある衛生兵のズボンは染み込んだ血のせいで乾けばそのまま立ったそうだ。恐怖やショックのために若くして突然白髪になってしまったという証言もいくつもある。血、血、血、血、血、そして雪の白、髪の白、戦争という黒、すべてを覆う血の匂い。

 一方でまた、彼女たちの証言は戦争とは生活でもあることを教えてくれる。兵士たちとともにその生活も戦場を移動していく。ある者は血まみれ泥まみれ蚤まみれの洗濯物の山を一日中手洗いし続け、ある者は一袋70キロもある小麦粉を運び、爆撃の中でパンを焼き続ける。それもまた過酷な戦争だ。

 そうした極限状況の中でも、女性兵士たちはやっと女物の下着が支給されたことを喜び、出撃の合図があるまで刺繍をし、仲間と少しずつ集めた包帯のガーゼでなんと花嫁衣装を縫い上げる。ハイヒールやワンピースへの憧れが繰り返し語られる。これは文化的刷り込みゆえなのか、もっと根源的な男性性・女性性といったものが存在するのか、考えさせられる。

 ソ連軍の戦死者は歩兵大隊の次に医療班が多いのだという。銃弾が飛び交う中、純白の雪原を自分より大きな血まみれの負傷兵を引き摺って必死で自陣に戻ろうとする女性救護兵。『戦争は女の顔をしていない』が読者の胸に刻むのはそんな光景だ。最後の証言者はドイツ兵と味方の負傷兵を交互に引きずっていったという衛生兵。憎しみと愛は共存できない、<人間には心がひとつしかない。自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。> という言葉が重く響く。