タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

いかれころ 三国美千子

 

塾の課題でした。

好きな小説です。

 

 

分家本家往復小説

 

 一般に関西人の抱く河内のイメージといえば、ガラの悪い人たちだんじり祭りをしてるとこ。三国美智子『いかれころ』はそんな河内のレッテルをぺらりとはがす小説だ。とはいえ、この小説の富裕な女たちは〝阿倍野〟に買い物には行っても、決して心斎橋へは行かない。上野には行っても銀座へは行かない、的な。これがなにか強烈に河内を感じさせるのだ。それはたぶん距離ではなく、文化の壁なのだろうと。

 昭和58年の春先から夏の終わりにかけて、<もも組さんで4歳のわたし>は、主に母に連れられて、自転車で、車で、分家の我が家と本家を行ったり来たりする。本家は豪農の杉崎家で、祖父母、曾祖母、叔母、叔父が暮らしている。4歳児の視点の小説とはいえ、登場人物たちはしばしば名前で呼び捨てにされ、ときに過去に遡り、ときに後年からの考察を交える語りには3人称小説の趣もあって、その揺らぎもまた、この小説の魅力だ。4歳児の目が見上げる河内の豪農の世界と、包括的な神の視点が交錯する。

 豪農とはいえ〝農〟なので、祖父母は身を粉にして働く。一方、その3人の子どもたちは全員無収入。主人公の母である長女久美子29歳は分家して婿養子を迎えた専業主婦。次女志保子24歳はセイシンを病んだ過去があり、ひっそりと実家の手伝いをしている。長男幸明22歳は大学を休学中の今でいうニート。全員髪が長い。久美子の夫、養子の隆志35歳は学生時代の政治活動が自慢の中学教師だが、その実 <進歩的でも論理的でもなく、旧時代の田舎の男>。養子を逆手に取っての好き放題。全員、父末松から見て<すかくろうた>だ。

 物語は志保子の縁談の成立と破綻を中心に進み、分家・本家で耳にする大人たちの会話の中から、奈々子4歳は、養子、セイシン、アカ、カイホー、恋愛結婚、そして<女という言葉にも、黒い影がついて回る>ことに気づいていく。幼稚園でのいじめで彼女を支えたのは、<杉崎の家のものがみじめに屈するわけにはいかない> という矜持だったが、その裏にある、<人には上下の違いがある>という考えに、自分もまたあの黒い影と無縁ではいられないのだと悟る。そして、家によっていやいやながら結婚させられるとしか見えない叔母の姿に、<大人になっても結婚せずにすむ方法は自殺しかない> と思い詰める。

 そんな奈々子の決意が影響したのか、突如縁談を断った志保子。彼女が病的なまでに常に持ち歩いていたかごを怒りにまかせて久美子がぶちまけ、中の「お宝一式」すべてが暴露されるのだが、その慎ましさが切ない。針仕事の道具やノートなど、身近な細々したもので志保子は必死にその身を守っていたのか。そして、愛犬と久美子の写真に、久美子と隆志の結婚写真。志保子が隆志に淡い思いを抱いているかのようなほのめかしは幾度かあるのだけれど、なぜ犬にも久美子……。むしろ、久美子なのか志保子。

  結局、志保子は末松が建ててやったアパートの管理人として一生独身を通し、親の建てた分家に縛られ、それだけがおまえの価値と夫になじられた久美子は、<山のむこなどないみたいに、ここだけがすべてと思いつめた> 横顔を娘に見せる。親の庇護とも支配とも言える閉じた世界の中で、動かない人々。それを幸福とも不幸とも軽々には言えないけれど、河内はそういう土地柄でもあったのかと。