タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

やさしい猫 中島京子

 

塾の課題です。

 

 

だいじょうばないこの国

 

 中島京子『やさしい猫』は、シングルマザー(ミユキさん)と在留スリランカ人男性(クマさん)の恋愛、結婚を通して、出入国在留管理庁(入管)による恣意的な外国人収容の実態を告発する。ミユキさんの娘、マヤの視点から語られる物語にはさらに、就労も許されず、健康保険もなく、移動も制限される仮放免、シングルマザーが直面する困難、難病、非正規雇用LGBTSNSでの誹謗中傷などの問題も盛り込まれており、一家族の戦いを辿る中で、現代日本が抱える諸問題を自ずと学べる構造になっている。いい意味でのプロテスト、プロパガンダ小説と言えるかもしれない。これもまた〝物語〟が持つ力だ。

もうひとつこの小説が教えてくれるのが、〝言葉の力〟である。入管に出頭しようとしていたところを職務質問され、不法滞在が発覚、入管に収容されてしまったクマさんは、在留特別許可を得るためにミユキさんともども入管の特別審理官による「口頭審理」を受けることになるが、この場面が非常に不快である。審理官が放つのは、自らが予断と偏見によって作り上げたストーリーへと相手をねじ伏せ屈服させるための言葉。その横柄な口調からは権力を持つ者、生殺与奪権を握る者の驕りがにじみ出ている。長年の保育士としての経験から <嘘をつく子に国籍や人種の偏りはありません。> と反論するミユキさんに、審理官は <大人になると変わるんじゃないの?> と捨て台詞を吐く。正義を自認する彼には、自らの言動がどれほど偏見に満ち、非礼であるか、気づく回路もないのだろう。

 結局、クマさんの在留特別許可は下りず、退去強制処分の取り消しを求める裁判を起こすことになるが、法廷もまた勝つか負けるかの〝言葉の戦い〟の場だ。証言に立つ決意をしたマヤにクマさんから <ショーニンはしなくていい> と電話がかかってくる。弁護士の質問に答えるだけならいいが <入管の質問にも答えるだったらだいじょうばない> と。<どこからパンチがとんでくるかわからない。心をパンチされるみたい。終ってからも思い出して、心がとても痛い。そんなの子どものときに、しなくていい。>〝だいじょうばない〟はクマさん独自の「だいじょうぶ」の否定形だ。「正しく」はないこの言葉が、クマさんがこれまでこの国で受けてきた侮蔑の重さと、マヤへの愛情を浮き彫りにする。

『やさしい猫』にはもうひとつ、独特な言い回しが出てくる。マヤがまだ幼いときに病死した父は、赤ん坊のマヤがテーブルから落ちた哺乳瓶を見て大泣きする姿を見て <マヤはやさしい子だなあ。哺乳瓶にもやさしいよ> とつぶやいたという。以来、〝哺乳瓶にもやさしい〟は母がマヤをからかうとき、マヤがちょっと照れ隠しをするときの、家族だけの言葉となっていた。牛久の入管に移されたクマさんを、マヤがひとりで面会に行ったとき、別れ際にクマさんは <マヤちゃんはやさしい。べビバドゥ>と呟く。べビバドゥ = ベビーボトル = 哺乳瓶、ふたりの父がひとつに重なる瞬間だ。

正義をめぐって人を刺す言葉と、「正統」ではない独特の言葉が持つ温もり。読者は恥ずかしい日本の実情の数々を知るだけでなく、言葉と権力・正しさ・愛についても考えることになる。

 

 もうひとつ本書で知ったこと。入管の職員を収容者がみな〝先生〟と呼んでいる。それが普通になっていることのグロテスクさ。入管、職員、何様だ! ここでもしっかり言葉に権力が貼り付いている。こんなヤな国の一員であるワタクシ。