タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

悪魔の飽食

新版 悪魔の飽食 日本細菌戦部隊の恐怖の実像!<悪魔の飽食> (角川文庫)

 

もち、塾の課題です。ベストセラーになったとき、うちにあって読んだ記憶があるのですが、うっすら覚えているのは人体実験されている人のショッキングな写真だけ。それは記憶違いなのか、問題があって削除されたのか、新版にはありませんでした。提出したものは↓

 

丸太」と「悪魔」

  旧日本軍細菌戦部隊の実像を丹念に暴く森村誠一著『新版 悪魔の飽食』の内容は凄惨。食事時には読めない。持ち歩く気にもなれない。家でいやいや読むしかない。

 人間が最低最悪の残虐行為に走るのは、発作的な行動や、ひとりの〝悪魔的〟存在による蛮行ではなく、非常に合理的に構築されたシステムによってなのだ、という事実に改めて戦慄する。アウシュビッツしかり。七三一部隊しかり。そばの官舎で家族とともに暮らしていた隊員も大勢いる。日常生活と人類史上屈指の残虐行為が並立している。ひとたびシステムに組み込まれると、どんなおぞましい行為にも躊躇しなくなる人々の姿は、ナチのアイヒマンを彷彿とさせる。言葉とは恐ろしいものだ。捕虜を丸太と呼ぶことになんの抵抗も抱かなくなったとき、きっと良心の一部が壊死するのだろう。

 もうひとつ、本書で際立つ言葉が「悪魔」だ。タイトルは元より、見出し、小見出しにも「悪魔の死に水」、「悪魔からの予約」、「七三一はなぜ「悪魔」なのか」などなど、「悪魔」の字が躍る。森村は〝悪魔は、軍国主義の罪業と悪を象徴した抽象的なタイトルである〟と言うが、本文でも頻出する「悪魔」やその類語、付随する形容詞が、人体実験の地獄絵図を〝具体的〟に〝扇情的〟に生々しく描き出している。こうして「悪魔」レッテルをぺたぺた貼る一方で〝われわれも、第七三一部隊の延長線上にある人間であるということを忘れてはならない〟と森村はたびたび強調。それはいいけど〝この実録の目的は個人の責任を問うことではなく、(中略)戦争体験の真実を記録して、戦争の愚を決して反復しないための一臂の抑止力とするためである〟責任は問わず、記録するだけで抑止になるのか? 挙げ句〝「御国」のために、国家の命令によって行ったことを「悪魔」呼ばわりされて憤怒に耐えない方も多いであろう。〟この理屈でいけば、アイヒマンも当人が主張したとおり無罪だ。ここまでの腰の引けっぷりは、旧版の写真誤用事件の際の激しいバッシングゆえなのか? 

 いや、悪魔、悪魔とセンセーショナルに煽りつつ、決して当事者を責めているのではありません、みんな戦争が悪いんやー、こそが本書を一大ベストセラーにした秘密なのかもしれない。個人の責任を問わずうやむやにするのは日本のお家芸。七三一部隊も、原発事故も、白黒つけないカフェオレだ。

 あとひとつ。日常些事をちまちま書く〝在来の純文学的私小説〟とは異なり、たいへんな取材が必要であった本書は〝私たちのペア・ワーク(一心同体の共同作業)〟--なんか気持ち悪い--とまで言うなら、潔く共著にしろよ、森村。

 

 共著問題に関しては、リサーチャーとアンカーという分業が確立している面もあり、あながち森村誠一だけを責められないという指摘が先生からあったのだけれど、じゃあ、ぐちぐち言い訳書くなよって話で、というようなことを言ったらば、先生が「まあ、新版っていうのが要は旧版の言い訳ってことだし」的なことをおっしゃり、そりゃそうだなと。

 この本が出たことの意義がいろいろあるのはわかるけれども、告発者としての責任と覚悟がイマイチな感じがしてしまう森村だす。受講生のひとりの方が指摘されたように、資料が一切記載されてないというのも、ノンフィクションを名乗るならあまりに脇の甘いやり方だ。

 告発一転〝同じ人間なんだから〟責任は問えない的な物言いにも釈然としない中、課題を書き上げた日、現在トイレ本の『内田樹の大市民講座』にドンピシャの一節を発見。

 姦淫を犯した女を石打ちの刑に処すべきかどうか訊ねられたときにイエスが会衆に告げた言葉(中略)

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(『ヨハネによる福音書』)

 こう言われた人々は、イエスひとりを残して、全員がその場を立ち去った。

 おそらく古くから言い伝えられた言葉なのだろう。歴史的風雪に耐えただけに、反論することのむずかしいロジックである。だが、注意してほしいのは、イエスはこれを「話にけりをつける」ために口にしたのではないということである。彼は「答えのない問い」にアンダーラインを引くためにこの言葉を口にしたのである。

 多かれ少なかれ私たちは罪人である。罪人に他の罪人を咎める権利があろうか? いや、誰にも他者の非行を咎める権利はない。だが、それが「フェアネス」だとなると、罪人は野放しにされ、結果的に「強い罪人」が「弱い罪人」を食い物にするワイルドな世界が到来するだけである。それを「フェアネスの実現」と呼ぶことはできない。

 このむずかしい問いに私が用意している経験的な解は「人の罪を咎めるときは、わが身を省みて、控えめに、ためらいがちに語る」ということに尽くされる。他人の罪を咎めるとき、おのれの正しさを言い立てるときに、弁舌爽やかな人間を私は信じない。

 ちなみに8月30日の国会包囲に参加した私ですが、悪魔の呪いか森村誠一のスピーチだけしっかり聞こえてきて、これがまたトホホな内容でありました。