タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

3年ぶりにバリへ潜りに

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海外旅行経験は割と豊富(ほぼ潜りに、だし、ビンボー旅ですが)な方だと思うけど、今回初めて書類大ポカが出発前日に発覚。手の打ちようがなく、でもおそらく大丈夫、の情報はあり。いつになく不安な気持ちで成田に来て、何かあっても航空会社免責の一筆というのを書いて、飛行機には乗れます。書類がラス1でコピー取ってたから、たぶん同様のポカが多発しておるのでしょう。

2度とこんなことがないように、しっかり確認、早めの準備を心がけなくては。

成田はやはりそんなに混んでない。中国系の人が目立ちます。パスポートチェックも機械だし、するするすると搭乗。

 

そして、機内で読むのはなんと

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田山花袋田舎教師

飛行機の座席はざっくり65%くらいが埋まっており、成田発だからその大半が日本人なわけですが、絶対私以外いないよな。南の島へ行こうってときに『田舎教師』読むやつ。

ま、塾の課題で期日もあり読まねばならぬ。

でも、5時起きできのうあんまり寝られてないし、すぐ寝てしまいそう。

 

と思ったら、意外やけっこうおもしろくないわけでもなく、ほとんど寝ないで到着!

 

着込んだ服をトイレで脱ぐ、が、バリの空港まだ新しいのに、トイレは故障やらいろいろでイカンぞ!空港のトイレって、その国の文化度の指標になる気がするのは私だけでしょうか。

ともあれ、着替えで出遅れつつも諸手続きはスムーズに、後日ダイヴショップの方にコロナ以降最速で出てきたと言われました。コロナに関してはまったくのノーチェック。検温もあったのかどうか、よくわかりません。

 

お迎えのドライバー、ニョマンさんと3年ぶりの再会。

懐かしい宿に着いて、海を眺めながら遅めの夕食をいただきました。

 

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阿武隈共和国独立宣言 村雲司

 

これは↓で紹介されていて読んだのだけれど

まさか読んで腹が立つとは。その勢いで書いてます。

原発で汚染された東北の村が日本からの独立を宣言。老人たちが目指したユートピアを国家は武力で一気に潰しにくる、という話なんだけれども、主人公の60代後半男性は大学時代の演劇仲間の女性に誘われて、この独立の企てに参加することになる。話は『この30年の小説、ぜんぶ……』でも言われているように、すんごくベタなんだけど、それは別にいい。問題はこの男が文字通り命がけの決断をするにあたって、妻にも息子にも一切打ち明けないこと。学生時代の女ともだち(既婚)とは瞬く間に同志となり、ともに散っていく〜みたいな、通奏低音、ほぼ不倫じゃん。一方、妻と息子には簡潔な手紙で事後報告。攻撃される阿武隈共和国を救おうとするデモ隊の中に、その妻子が都合よく駆けつけてきてくれている。来るか? 男が新宿駅西口で続けてきたスタンディングに絡めて様々なことが語られるけれど、妻は独立決行の日に家を出る夫を何も知らず見送り、最後のデモで再登場するのみ。この男はいったい長年連れ添ったであろう妻とどんな関係を築いてきたのか、何を語り合ってきたのか。あるいは成人に達している息子とは。そういうところを平気でスルーして、なんとも感じない、この正義のおっさんよ。嫁は空気か。空気がないと人間死ぬぞ。天下国家も大事だが、もっとキチンと自分の足元を見直せと、オヤジ臭く説教もしたくなる。原発も国家権力も吹っ飛んで、リベラル気取り正義オヤジ、その実ガチコンサバうぜえ、しか残らないってなあ。

ミシンと金魚 永井みみ

 

塾の課題でした。

 

 

ミシン中毒者は新聞配達のバイクに乗って

 

< あの女医は外国で泣いた女だ。> む?む? 永井みみ『ミシンと金魚』はいきなりカッコよく始まる。

そして、ラスト、ページをめくると <今は、秋だ。> の一行。以下空白。終わり方もカッコいい。

主人公、安田カケイの独白は、冒頭から彼女の鋭い観察眼を開陳していく。女医の目からは <興奮状態で、のべつまくなし喋り続け> ているとしか見えない老女は、貧困、医療・介護の現場での階級、じいさん・ばあさんの有り様などなどをしっかりと捉えている。一級の観察者だ。

 老人の朝は <目が覚めたとたん忙しくなる。まず、しょんべんしに便所に行かなくちゃなんない。それから新聞を取りに行かなくちゃなんない。> 寝床から体を起こすのもひと苦労。便所までたどり着き、お尻を出すまでがまたひと苦労。新聞を取っていないと倒れているのではないかと介護士が心配するし、新聞の日付を見ないとその日が何年何月何日なのかわからない。対照的に <夜は、手放しで、ありがたい。> しょんべんも済ませ、おむつも工夫して二枚重ねで朝までバッチリ。<眠ってしまえば、もうあれこれかんがえずに、すむ。あああ。このまんま、あしたの朝、目が覚めなきゃいいのに。> 生々しい老齢の日々の実態に、自分にもこういう日が来ることを思わずにはいられない。

カケイの人生は壮絶だ。生後まもなく母を亡くし、継母に虐待され、犬の乳(!)を飲んで育ち、小学校にもろくに通えず、兄に決められた夫は失踪、夫の連れ子に夜毎性交を強要され、生まれた娘は2歳で病死。唯一の庇護者であった兄も惨めに野垂れ死に、ろくでなしの長男は60歳で借金苦で自殺。現在、遺産(持ち家)目当ての嫁が、たまに介護にやってくる。

 そんなカケイを支えてきたのは、女は絶対に手に職をつけろ、という祖母の教えを守って身につけたミシンの腕と、独学で読み書きを学ぶ手段となった新聞だ。そして、物語の中盤、女性看護士全員を〝みっちゃん〟と呼び、ひとまとめにしてしまうカケイにとっての〝ほんもんのみっちゃん〟、<ひとり、便所でひり出し > 2歳で病死させてしまった娘、道子が登場する。人間なら誰でも、< 2歳すぎても、かあしゃん、と呼んだ > 道子に倣って、介護士たちはみんなみっちゃんだし、カケイのときどきの幼児口調も道子の口調に重なっていく。妊娠中、不義の子を堕ろせと迫る兄を、カケイはミシン仕事に没頭することでやり過ごした。いわばミシンが産ませてくれたこの最愛の娘を、しんぼうづよい娘を、ミシンを踏んでるときだけ、<ぜーんぶ忘れて、からっぽになってラクんなる> ミシン・ハイのカケイは、水も食事も与えず放置し、飢えと渇きを癒やすために金魚鉢の水を何度も飲んだ道子は、疫痢で死ぬ。それまでの人生で人に甘えることなど知らなかったカケイは、唯一、聞き分けのいい実娘に甘え、ミシンに溺れ、ミシンが与えてくれた子をミシンに奪われた。

 それでも人生は続き、カケイはミシンを踏み続けたのだろう。ラスト、玄関で倒れたカケイは新聞配達のオートバイの音を耳にする。新聞が彼女を〝お迎え〟にやってきた。ミシンと新聞の人生であった。

 

 短い作品なので丁寧に読めば割と楽に書けるのではと思っていたら、密度が高く、書きたいことがどんどこ出てきて、整理がたいへんだった。

 終盤、ずっと〝悪役〟できた嫁が汚れたテーブルをきれいに拭いていく手際に、カケイが <嫁はすでに、仕上がってる> と感心する場面は、カケイの職人魂炸裂ポイントかつ嫁の人格の多層化ポイントだから、何とかねじ込むべきであったなあ。

 

                               

やさしい猫 中島京子

 

塾の課題です。

 

 

だいじょうばないこの国

 

 中島京子『やさしい猫』は、シングルマザー(ミユキさん)と在留スリランカ人男性(クマさん)の恋愛、結婚を通して、出入国在留管理庁(入管)による恣意的な外国人収容の実態を告発する。ミユキさんの娘、マヤの視点から語られる物語にはさらに、就労も許されず、健康保険もなく、移動も制限される仮放免、シングルマザーが直面する困難、難病、非正規雇用LGBTSNSでの誹謗中傷などの問題も盛り込まれており、一家族の戦いを辿る中で、現代日本が抱える諸問題を自ずと学べる構造になっている。いい意味でのプロテスト、プロパガンダ小説と言えるかもしれない。これもまた〝物語〟が持つ力だ。

もうひとつこの小説が教えてくれるのが、〝言葉の力〟である。入管に出頭しようとしていたところを職務質問され、不法滞在が発覚、入管に収容されてしまったクマさんは、在留特別許可を得るためにミユキさんともども入管の特別審理官による「口頭審理」を受けることになるが、この場面が非常に不快である。審理官が放つのは、自らが予断と偏見によって作り上げたストーリーへと相手をねじ伏せ屈服させるための言葉。その横柄な口調からは権力を持つ者、生殺与奪権を握る者の驕りがにじみ出ている。長年の保育士としての経験から <嘘をつく子に国籍や人種の偏りはありません。> と反論するミユキさんに、審理官は <大人になると変わるんじゃないの?> と捨て台詞を吐く。正義を自認する彼には、自らの言動がどれほど偏見に満ち、非礼であるか、気づく回路もないのだろう。

 結局、クマさんの在留特別許可は下りず、退去強制処分の取り消しを求める裁判を起こすことになるが、法廷もまた勝つか負けるかの〝言葉の戦い〟の場だ。証言に立つ決意をしたマヤにクマさんから <ショーニンはしなくていい> と電話がかかってくる。弁護士の質問に答えるだけならいいが <入管の質問にも答えるだったらだいじょうばない> と。<どこからパンチがとんでくるかわからない。心をパンチされるみたい。終ってからも思い出して、心がとても痛い。そんなの子どものときに、しなくていい。>〝だいじょうばない〟はクマさん独自の「だいじょうぶ」の否定形だ。「正しく」はないこの言葉が、クマさんがこれまでこの国で受けてきた侮蔑の重さと、マヤへの愛情を浮き彫りにする。

『やさしい猫』にはもうひとつ、独特な言い回しが出てくる。マヤがまだ幼いときに病死した父は、赤ん坊のマヤがテーブルから落ちた哺乳瓶を見て大泣きする姿を見て <マヤはやさしい子だなあ。哺乳瓶にもやさしいよ> とつぶやいたという。以来、〝哺乳瓶にもやさしい〟は母がマヤをからかうとき、マヤがちょっと照れ隠しをするときの、家族だけの言葉となっていた。牛久の入管に移されたクマさんを、マヤがひとりで面会に行ったとき、別れ際にクマさんは <マヤちゃんはやさしい。べビバドゥ>と呟く。べビバドゥ = ベビーボトル = 哺乳瓶、ふたりの父がひとつに重なる瞬間だ。

正義をめぐって人を刺す言葉と、「正統」ではない独特の言葉が持つ温もり。読者は恥ずかしい日本の実情の数々を知るだけでなく、言葉と権力・正しさ・愛についても考えることになる。

 

 もうひとつ本書で知ったこと。入管の職員を収容者がみな〝先生〟と呼んでいる。それが普通になっていることのグロテスクさ。入管、職員、何様だ! ここでもしっかり言葉に権力が貼り付いている。こんなヤな国の一員であるワタクシ。

いかれころ 三国美千子

 

塾の課題でした。

好きな小説です。

 

 

分家本家往復小説

 

 一般に関西人の抱く河内のイメージといえば、ガラの悪い人たちだんじり祭りをしてるとこ。三国美智子『いかれころ』はそんな河内のレッテルをぺらりとはがす小説だ。とはいえ、この小説の富裕な女たちは〝阿倍野〟に買い物には行っても、決して心斎橋へは行かない。上野には行っても銀座へは行かない、的な。これがなにか強烈に河内を感じさせるのだ。それはたぶん距離ではなく、文化の壁なのだろうと。

 昭和58年の春先から夏の終わりにかけて、<もも組さんで4歳のわたし>は、主に母に連れられて、自転車で、車で、分家の我が家と本家を行ったり来たりする。本家は豪農の杉崎家で、祖父母、曾祖母、叔母、叔父が暮らしている。4歳児の視点の小説とはいえ、登場人物たちはしばしば名前で呼び捨てにされ、ときに過去に遡り、ときに後年からの考察を交える語りには3人称小説の趣もあって、その揺らぎもまた、この小説の魅力だ。4歳児の目が見上げる河内の豪農の世界と、包括的な神の視点が交錯する。

 豪農とはいえ〝農〟なので、祖父母は身を粉にして働く。一方、その3人の子どもたちは全員無収入。主人公の母である長女久美子29歳は分家して婿養子を迎えた専業主婦。次女志保子24歳はセイシンを病んだ過去があり、ひっそりと実家の手伝いをしている。長男幸明22歳は大学を休学中の今でいうニート。全員髪が長い。久美子の夫、養子の隆志35歳は学生時代の政治活動が自慢の中学教師だが、その実 <進歩的でも論理的でもなく、旧時代の田舎の男>。養子を逆手に取っての好き放題。全員、父末松から見て<すかくろうた>だ。

 物語は志保子の縁談の成立と破綻を中心に進み、分家・本家で耳にする大人たちの会話の中から、奈々子4歳は、養子、セイシン、アカ、カイホー、恋愛結婚、そして<女という言葉にも、黒い影がついて回る>ことに気づいていく。幼稚園でのいじめで彼女を支えたのは、<杉崎の家のものがみじめに屈するわけにはいかない> という矜持だったが、その裏にある、<人には上下の違いがある>という考えに、自分もまたあの黒い影と無縁ではいられないのだと悟る。そして、家によっていやいやながら結婚させられるとしか見えない叔母の姿に、<大人になっても結婚せずにすむ方法は自殺しかない> と思い詰める。

 そんな奈々子の決意が影響したのか、突如縁談を断った志保子。彼女が病的なまでに常に持ち歩いていたかごを怒りにまかせて久美子がぶちまけ、中の「お宝一式」すべてが暴露されるのだが、その慎ましさが切ない。針仕事の道具やノートなど、身近な細々したもので志保子は必死にその身を守っていたのか。そして、愛犬と久美子の写真に、久美子と隆志の結婚写真。志保子が隆志に淡い思いを抱いているかのようなほのめかしは幾度かあるのだけれど、なぜ犬にも久美子……。むしろ、久美子なのか志保子。

  結局、志保子は末松が建ててやったアパートの管理人として一生独身を通し、親の建てた分家に縛られ、それだけがおまえの価値と夫になじられた久美子は、<山のむこなどないみたいに、ここだけがすべてと思いつめた> 横顔を娘に見せる。親の庇護とも支配とも言える閉じた世界の中で、動かない人々。それを幸福とも不幸とも軽々には言えないけれど、河内はそういう土地柄でもあったのかと。

献灯使 多和田葉子

 

塾の課題です。

 

 

献灯使、検討ののち拳闘し、見当違いに健闘し

 

 多和田葉子「献灯使」は、言語変換 / 言葉狩りディストピア小説とも言えるかもしれない。

 ざっくり近未来。100歳を越えた義郎と曾孫の無名の生きる世界は基本的に汚染されており、さらなる相互汚染を防ぐため、鎖国政策が取られている。(「鎖国」って国を鎖でぐるぐる縛るみたいだ。)そこでは子供はもろくも老い、老人は老いるほどに頑強という逆進制。汚染度が低くいまだ農業が可能な沖縄、北海道は特権的地域で、他地域からの移住を簡単には許さない。政府も警察もなにもかも民営化されていて、<法そのものが見えないまま、法に肌を焼かれないように直感ばかりを刃物のように研ぎ澄まし、自己規制して生きている> 超監視忖度社会だ。特に規制が厳しいのが外国語で、英語学習は禁止されており、<英語が少しでも理解できれば、それは年を取っている証拠>で、<公の場で外国語の歌を40秒以上歌うこと> 、翻訳小説の出版、外国の都市の名前を口にすることも禁じられている。

 そのため、ジョギング→駆け落ち、岩手made→岩手まで、空港ターミナル→空港民なる、クリーニング→栗人具など、太平洋戦争中を彷彿とさせるような外来語の言い換えが行なわれ、また、ポリティカル・コレクトネス系変換、突然変異→環境同化、孤児→独立児童、義郎の妻、鞠華が運営する児童施設「他家の子(たけのこ)学園」などもあれば、診断→死んだ、で縁起が悪いと定期診断が「月の見立て」とされるなど、さまざまな言葉の書き換えがなされている。あちこちに顔を出す言葉の歪曲が、歪められた社会を映し出す。まず言葉が襲われるのだ。

 環境も不安定、<貸し犬と猫の死体以外に動物を見かけない> 世界で、抵抗力なく汚染を吸収し、弱っていく子供たちを救うべく、密かに〝献灯使の会〟が組織されている。毎朝の〝献灯の儀式〟を通じて、物語の序盤から、その会員の姿は作中に散りばめられていて(パン屋、包丁造り名人、鞠華、無名の担任、夜那谷)、終盤、小学2年から15歳にタイムスリッブした無名がいよいよ献灯使に選ばれ、ついに明かされる献灯使の使命! それは密かに海外へ出て、日本の子供の健康状態を研究してもらう……って、ショボっ。

 冒頭から、少しずつ明かされていくこの陰鬱な近未来の全体像に、底知れぬ物語の奥行きに、それ行け純文学!とわくわく、くらくらした。< 柱時計がぼんぼん殴りかかってきた>、<身体をメモ用紙みたいにその場から引きちぎって、くしゃくしゃにして捨てるように歩きだす> なんて比喩にもしびれた。どうする、どうなる、献灯使!?  何やらかしてくれるんだ献灯使!? だったのに……。

 そもそもタイムスリッブした時点で、あれ? ではあった。まさかの苦し紛れ? そして結末、<後頭部から手袋をはめて伸びてきた闇に脳味噌をごっそりつかまれ、無名は真っ暗な海峡の深みに落ちていった。> 文章としては好きですけど、これは1.無名あっさり死んだ。2. またタイムスリップかよ。の二択でしょうか? 伏線を回収しないのは世の常、純文学の常とはいえ、勝手に読者に宿題ばかり残して、去っていくのだよなあ。そこがいいのよ、と言い切れぬ、半端感。今、まさに私たちがコロナの時代に体験している閉塞感と、みごとに重なる小説世界ではあるのだけれども。

園芸家12カ月 カレル・チャペック

 

塾の課題です。

自分でもちょっと好きです。

 

 

園芸家はミミズの夢をみる

 

 以前住んでいた借家には畳十畳分くらいの、私基準ではけっこう広い庭がつていた。都会育ちで庭というものにほとんど縁なく生きてきたのでうれしくて、引っ越し当初(春だった)私はかなり張り切っていた。しかし、長年空き家だったその家の草ぼーぼーの庭に足を踏み入れたとたん、たちまち手足のあちこちが猛烈にかゆくなって、即退散。久しぶりに現れた餌に、虫たちは飛びつき、貪り食ったのだ。私は丸腰で庭に入ってはならぬと学んだ。帽子につける防虫ネットを購入し、長袖、Gパン、手袋、長靴の完全防備態勢。それでもどこかしらはやられる。それにこのかっこうになるのがけっこうめんどくさい。結局、わずかな隙間にわずか数種のしょぼいなんやかやを植えただけで、私の園芸ライフは終了。以来ほぼ、屋内からワイルドな庭を眺めるだけになった。手入れはまったくしない。水もやらない。それでも最初から植わっていたハナカイドウやシャガ、椿、紫陽花などが季節になれば咲き乱れ、秋には紅葉が色づき、ヒヨドリ、シジュウガラ、セキレイメジロなどの野鳥が訪れた。なんとタヌキが庭を横断していったこともあった。放置庭はそれなりにいいもんだった。

 が、しかし、そんな庭をともに愛した家族を失った翌年だったか、隣家から、我が家の庭の木の枝が窓にあたってうるさいという苦情が入った。管理の不動産屋さんに伝えると、すぐに年配の植木屋さんがやってきた。私は自分が植えたローリエやミントが無用と判断されてはまずいと思い、残してくれるよう頼んだ。じいちゃんはふむふむとうなずき、そして数時間後(仕事が速い)庭はローリエとミントと紅葉と紫陽花を残して、ほぼ丸裸になっていた。大家/不動産屋は植木屋経費節約しか頭になかったのだ。庭を彩る主役たち、ハナカイドウも椿も南天も情け容赦なく切られ、シャガは跡形もなく引っこ抜かれていた。無惨だった。胸が痛かった。むんむん緑だった庭は、土の茶色ばかりが目立つようになった。

 が、しかし、カレル・チャペックならむしろ、この事態を喜んだかもしれない。と、今回『園芸家12カ月』(旧版)を再読して思う。この軽妙洒脱な園芸讃歌でいちばんの愛情を注がれているのはなんと〝土〟だ。チャペックは〝土フェチ〟なのだ。<ほんとうの園芸家は花をつくるのではなくって、土をつくっている>、<涙の谷と言われるこの味気ない人生に、これ以上うつくしいものはない> ←土のことです。言い切ってます。 <つぎの世に生まれかわったら、園芸家は(中略)窒素をふくむ、かおり高い、くろぐろとした、ありとあらゆる大地の珍味をもとめて、土の中をはいまわるミミズになるだろう> ミミズ……なあ。

 カレル・ミミズ・チャペックさん、あれは千載一遇のチャンスだったのでしょうか? あのときなら、私は虫の襲撃におびえることなく、思う存分土をいじくりまわして、園芸家デビューできたのでしょうか?

 借家の庭はほどなく、雑草主体のむんむん緑に戻った。