タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

御社のチャラ男 全世界、全人類に片思い

 

塾の課題でした。

 

 

全世界、全人類に片思い 

 

 絲山秋子『御社のチャラ男』はロンド形式で一人称の語り手が次々に入れ替わり、舞台となるジョルジュ食品の社員の面々のキャラクターが多角的に描き出されていく。たとえば総務課池田かな子(24歳)は、営業岡野繁夫(32歳)が語る第1編に、社長のお気に入りの若く可愛いが、どこかアンドロイドのようで人間味がなさすぎる女性社員として登場する。かな子自身が語り手となる第2編では、社の面々をクールに分析し、政治家になるという将来設計を堅実な語り口で披露、さらに <私は靴こそとがっていないけれどチャラかったのだ。ちぐはぐで、うすっぺらで、小賢しかったのだ。> と自省の刃も鋭い。ところが、営業樋口裕紀(24歳)による第3編では、<子供っぽくすることが女の処世術みたいなしたたかさ>、<私だけがそんなあだ名で呼んでもかまわないのだという、周りの女性社員に対するマウンティング>、<ああいうひとはちょっと、ほんとうに無理>と切って捨てられる。この批判がいわゆるお局様的ベテラン女性社員からではなく、かな子が一時期好意を寄せていた樋口から出ているのがなおつらい。そして実際、ベテラン女性社員佐久間和子(48歳)からも <商品知識もビジネスも知らない素人同然>と片づけられているし、池田治美(50歳)、すなわち、かな子の母までが <情緒に関しては何かが欠けているような気がする>。もうこうなってくると、この娘(こ)あったまいい〜と感心していた私はなんだったんだ……と一方、かな子から <不器用きわまりないひと>、<私よりずっと年上だけど、幼い>、<英語喋れるけど、知識豊富だけど、ばかなのかもしれない>とさんざんな言われようの伊藤雪菜(29歳)は、過労で心を病んで休職するときに手続きなどで世話になったかな子に <もっといけすかない女子なのかと思っていたけれど、全然そんなことはなかった>と感謝し、復帰後はけっこう仲良くなっている。

 このめくるめく多面体感はかな子に限らない。本作の核とも言うべきチャラ男こと三芳道造(44歳)部長も、みんなにこき下ろされつつ、全方位的にイヤなやつでありつつ、誰の中にもいるチャラ男を映し出す鏡となっているし、各自が内なるチャラ男を認識するとき、チャラ男三芳のキャラクターもまた厚みを増していく。たとえば、彼の社内不倫の相手の一色素子(33歳)の <もしかしたらチャラ男は全世界、全人類に片思いをしているのかもしれない>という分析が、チャラ男を定型から開き、広げていく。

 結局、会社はいろいろあって吸収合併され、社員たちもバラバラになるのだが、ブラックだ、でたらめな会社だというのがみんなの共通認識だったはずなのに、いざなくなるとなると、かな子も伊藤も〝ひとつの文化が失われる〟と感じる。会社勤めの経験のない私にはそこもまた興味深かった。

 <生きるということはプロセスだ。つまり誰にでも「その後」はあるということなのだ> 物語を締めくくるチャラ男の言葉に、私は救われる。たぶん、みなみな救われる。チャラ男、えらい。

 

 初絲山秋子でしたが、この作家と出会う機会を与えてくれたS先生に感謝。その後たまたま雑誌で読んだ「忸怩たる神」も、神が行きつけの蕎麦屋の人とドライブに出かける(!)話で、今思い出しただけでもう読み返しそうになってしまう、くらいおもしろいです。

金子文子 『何が私をこうさせたか』

 

塾の課題でした。

 

金子文子に祝福を!

 

 かつて大映ドラマってやつがテレビの連続ドラマ界の一翼を担っていた。ドロドロのメロドラマで、極悪非道の輩が主人公の薄幸の美少女をこれでもかこれでもかといじめ抜く。関東大震災の混乱の中で恋人の朴烈とともに思想犯として捕らえられ、獄中縊死した金子文子の自伝『何が私をこうさせたか』は、400頁余のうち約半分がまさに大映ドラマ。読んでいるうちにだんだん、肉親の情とか、あれ全部噓だな、神話だな、とさえ思えてくる。親類に引き取られた朝鮮での生活があまりに陰惨で、植民地の金持ち日本人サイテー、あと何ページ朝鮮生活続くんだと目次に戻り、なんとか〝性の渦巻き〟の章まで行けばドロドロでも救いはあるんじゃないか、自由もあるんじゃないか、たどり着いたら性の渦巻き、それを頼みに耐える。

 が、奔放なようでいて、意外や性に関する筆は抑制の効いている文子。たいして渦巻かない。結局叔父との関係もはっきりしないし、年表には <性暴力を受ける> と記されている一件も曖昧な書きぶりだ。男性との肉体関係が明示されるのは、実家近くの映画館でナンパされて交際が始まり、東京で再会した不良学生との p360 <その夜私は、いつものように、一組しかない蒲団で瀬川と一緒に寝た。> が初めてである。しかし、自らの母を <一人では到底生きて行けない性質(たち)の> 支えてくれる男が必要な女と評する文子もまた、叔父、瀬川、キリスト教徒の伊藤、韓国人留学生玄と、次々に手近な男を支えにしていく。文子自身、母を責めようとは思わないと記しているが、確かにこの時代、彼女や彼女の母のような徒手空拳の女が生きて延びていくのに、ほかに道があっただろうか。

 それでも、文子は <私達自身には私達自身の真の仕事があり得る> はずだと考え、それをしたいと切に願う。そして、彼女は出会うのだ。一編の詩に惚れ込み、一度会ったきりの男に確信する。<私の探しているもの、私のしたがっている仕事、それはたしかに彼の中に在る。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている。> 曇天さもなくば暴風雨人生に光が満ち、文子はまっすぐ突き進む。<私は単刀直入に言いますが、あなたはもう配偶者がお有りですか、または、なくても誰か……そう、恋人とでもいったようなものがお有りでしょうか……> なんと初々しく可憐な告白だろう。食うにも事欠くほどの貧困も、大人たちの虐待や強欲、醜態も、男たちの打算に満ちた性欲も、金子文子の核心を汚すことはできなかった。彼女はまっしぐらに運命の人のもとへ飛び込む純情を失わなかった。23歳の文子の死を哀れとは言わせない。彼女には誰にも奪うことのできない至福の日々の記憶があったはずだから。これもひとつの幸福な人生である。

 

同志少女よ、敵を撃て

 

塾の課題です。

 

イリーナは女の顔をしていない、つか、なんなら人間の顔もしていない。

 

 イリーナ。第二次世界大戦中のソ連軍女性狙撃兵の「活躍」を描く逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』において、準主役とも言える指導教官。登場シーンはこうだ。<カーキ色の軍服を見事に着こなし、制帽を被った、黒髪の女性だった。/ 瞳の色も黒く、肌は対をなすように白い。精悍な顔立ちに、細身の体。それでいて屈強な兵士たちに比べても遜色のない長身の、おそろしく美しい女性だった。> 主人公セラフィマが自分を除く故郷の村人全員をナチに殺されたと知った直後である。美貌長身兵士はセラフィマに「戦いたいか、死にたいか」の二者択一を突きつけ、家財を破壊し、思い出の写真を窓の外に投げ捨て、彼女の母の遺体に火を放つ。この暴挙によってセラフィマの胸に怒りと憎しみと復讐の大火が発生し、兵士となって敵を討つ、この女イリーナも殺すという決意が生まれる。これがイリーナ式狙撃兵製造法。「普通の少女」を兵士へと改造するメソッド。26歳、ときどき美貌と出てくるので思い出すが、いつもぞんざいな男言葉だし、つい頭に浮かぶのはいかついおばちゃん。〝美貌〟と書いておけばその人物は読者のイメージの中で美貌の相を帯び、動きだすのか。説明的な描写でレッテルを貼ればキャラクターは完成か。

 イリーナは一切、自己弁護はしない。捨てたはずの写真はとってあって、物語の終盤でセラフィマの下へ同僚兵士を通じて戻ってくる。母の遺体や家を焼いたのも疫病を防ぐためだったとわかる。そして、彼女は悟るのだ。イリーナは娘たちに二者択一を迫り、<戦うと答える者に戦いを教え>、自分のように<死を望んだ者を再起させ>、両方を拒む者には別の道を示したのだと。憎悪すんなり解消。しかし、私は言いたい。ちゃんと自分で説明して、謝るべきところは謝れよ、イリーナ。養成学校でいちばん感じのいい子から、早々に秘密警察のスパイと判明するオリガも同様だ。一変、残忍な笑み、陰湿な目。その後はずーっと絵に描いたような悪役ぶりで、最後はこれまたありがちの主人公を救って命を落とす。このキャラクターを支えるものとして提示されるのは〝コサックの誇り&怒り〟のみ。オリガが気の毒になる。

 何のために戦うのか。なぜソ連は女性兵士を前線に送ったのか。戦時性暴力はなぜ繰り返されるのか。そもそも戦争とはなんなのか。根源的な問いを繰り返しつつ、物語は進み、戦闘が描かれていく。そこは確かに新人離れした力量なのだろう。でも簡単に答えが出るはずのない、そうした問いの逐一が、どこか単純化されてしまっている印象がぬぐえない。クライマックスにセラフィマに〝敵〟として撃たれる幼なじみのミハイルの醜い変貌ぶりもまた、道具立てとしてしかキャラクターを使っていない感を強める。

 そして結末はなんと……。伏線はあった。序盤、君の戦争はいつ終わると問われたイリーナが、自分の知る誰かがその戦争体験を <ソ連人民の鼓舞のためではなく、自らの弁護のためでもなく、ただ伝えるためだけに話すことができ> たときだと語っている。あざとい。伏線もその回収も興醒めだ。

 

戦争は女の顔をしていない

 

塾の課題でした。

というか、前回の課題『同志少女よ、敵を撃て』を受けて、わたしが課題にしてほしいと先生に頼んだのでした。

 

 

世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ

 

 〝人間は戦争よりずっと大きい〟という章題でスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』は始まる。<ありふれた生活から巨大な出来事、大きな物語に投げ込まれてしまった小さな人々の物語> が綴られ <小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった> と語られる。本書を通じて大小の対比が繰り返される。

 まず驚かされるのは、女たちの多くが自ら熱烈に志願して戦場の最前線へ向かったことだ。それは〝革命〟という大きな美しい物語がまだ瑞々しく生きていた時代。〝祖国〟という言葉が輝いていた時代。貧しさからの解放の記憶が生々しい時代。ドイツに進軍した女性兵士が立派な道路や家、家具調度に驚き <どうしてこんなに良い生活をしている彼らが戦争なんかしなければならなかったのか> 理解できなかった、と語っているのが印象的だ。大きな物語に吸い込まれていった小さな人々。

 実際に彼女たちが体験した戦場とはなんだったのか。戦争は血、クロロホルム、ヨードの三種類の臭いだったと語る女性軍医、<雪の中では血の匂いがことさら強かった>という救護係の記憶。血の匂いだけには慣れることができず、戦地であまりにもたくさん血を見てしまったために、戦後身体が一切赤を受け付けなくなった兵士もいる。ある狙撃兵は戦争はなんでも真っ黒で、血だけが赤い、と言う。またある衛生兵のズボンは染み込んだ血のせいで乾けばそのまま立ったそうだ。恐怖やショックのために若くして突然白髪になってしまったという証言もいくつもある。血、血、血、血、血、そして雪の白、髪の白、戦争という黒、すべてを覆う血の匂い。

 一方でまた、彼女たちの証言は戦争とは生活でもあることを教えてくれる。兵士たちとともにその生活も戦場を移動していく。ある者は血まみれ泥まみれ蚤まみれの洗濯物の山を一日中手洗いし続け、ある者は一袋70キロもある小麦粉を運び、爆撃の中でパンを焼き続ける。それもまた過酷な戦争だ。

 そうした極限状況の中でも、女性兵士たちはやっと女物の下着が支給されたことを喜び、出撃の合図があるまで刺繍をし、仲間と少しずつ集めた包帯のガーゼでなんと花嫁衣装を縫い上げる。ハイヒールやワンピースへの憧れが繰り返し語られる。これは文化的刷り込みゆえなのか、もっと根源的な男性性・女性性といったものが存在するのか、考えさせられる。

 ソ連軍の戦死者は歩兵大隊の次に医療班が多いのだという。銃弾が飛び交う中、純白の雪原を自分より大きな血まみれの負傷兵を引き摺って必死で自陣に戻ろうとする女性救護兵。『戦争は女の顔をしていない』が読者の胸に刻むのはそんな光景だ。最後の証言者はドイツ兵と味方の負傷兵を交互に引きずっていったという衛生兵。憎しみと愛は共存できない、<人間には心がひとつしかない。自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。> という言葉が重く響く。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか

 

紙は人間よりも辛抱づよい、みたいにことをアンネ・フランクが日記の冒頭に書いていた気がする。調べてみたら、書いてますね。

ずいぶん久しぶりのブログだけれども、そして、紙じゃないけれども、アンネ・フランクにとっての日記的な、つれづれなるままに、日暮らしMacに向かひて、心にうつりゆくよしなごとを、そこはかとなく書きつくれば的な。なんかすみません。

橋本治」とはなにものだったのか

わたくし、生意気ながら、けっこう三島由紀夫を小バカにしておりました。まず、すべてにおいて仰々しい。文体は華麗、うまい、くどい。論理は精緻でも、行き着く果がなんかヘンテコ。女が理解できない人なので、つまんない女しか出てこない。ユーモアのセンスもちょっと変。けど確か『レター教室』はめちゃおもしろかったな、と一応探してみるけれど、当然出てこない。『妊娠小説』と『優雅な生活が最高の復讐である』も行方不明中の我が家です。『るきさん』は諦めて新装版を買いました。三島に戻って、ただ小説も『春の雪』だけはめっちゃやたらとおもしろい。こんな話興味ないはずなのに、もう読みだしたら止まらない。この人は神が愛でし作家なのだと、この一作で思わせる。

んなざっくりした三島感で生きてきたのを、さすが橋本治、仏壇返し!

頭が良すぎてクラクラします。つまらなかったのはわたしの読みの浅さゆえか、と思わせてくれます。それだけでもう、作家論として超一流だよな。読者に作用する、その力の強さ。

そして、全体に漂う三島という人の切なさ、みたいなもの。

この橋本治の三島論を三島当人が読んだとしたら、救われるのか、愕然なのか、てやんでえ、なのか。岸田秀によって刷り込まれた、三島の件は全部祖母が悪い、も精緻な読みで覆しちゃってるし、橋本治

三島由紀夫 VS 東大全共闘』も再見。これでもちょっと三島の印象変わったんだよね。映画の中で内田樹が指摘しているように、三島はほんとうにちゃんと話をしようとしている。赤ちゃんを肩車して降臨する芥正彦がまさに王子で、なんだか光り輝いちゃってるんだけれど、近代ゴリラ三島はこの嘲笑王子に決してマウントを取ろうとせず、まっすぐ向き合う。なのに王子は友だちにだけ「つまんないからオレ帰るわ、ごめんね」と挨拶して去ってしまう。三島を一顧だにせず。他人事なのに、なんかフラれた感。王子と野獣。ま、王子の言っていることもうわっ滑りぺダンティックで全部上から目線で、それが 70過ぎてからのインタビューでもほぼ変わってないのがまた、一貫性ありすぎなんだけども。そして、大教室を埋めた1000人もの学生の中に、女性は……ざっくり見当たりません。女のいない国、みたいだ。全共闘運動ってたぶん、そういうものだったのだ。

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』に戻ると、正直全部読み返して、読み返しつつ、そこで取り上げられている三島作品も併読して、をやるべきなのだ。けど、ずっと読むべき本の山に埋もれて窒息状態で、それができるとは思えない。やれば気持ちよさそうだけど、そこまで三島由紀夫大事じゃないだろ、わたし。橋本治は大事なんだけれども。なんかもう、部屋の片付けみたいになってきてる。とりあえず、『レター教室』は読みたいなあ、読了間近で吉祥寺の焼き鳥屋さんに忘れ、見つからず、買い直したような気がする、見かけた気がするのに。で、引越し以来未整理のままの文庫山(収納場所未定というか現状ないというか)をチェックすると、小説8冊に加えて(『金閣寺』行方不明)『作家論』と『文章読本』が出てきて、解説をちらと見ると、三島は自身を何よりもまず批評家と捉えていたとか、ええ? しかも両書ともしっかり蔵書印が押してあるので読んでるんだよ、けど完全に忘れてる。いやはや。どうすればいいんだ、三島由紀夫、つか、それを言うなら、どうすればいいんだ、橋本治か。ぐるぐるぐる。

追記 : 六代目中村歌右衛門も、橋本治による歌右衛門評を読んだらどんな思いを抱いたのだろうなあ。あ、バレてる、だろうか。そんなわけないか。

 

 

 

コロナ時間

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コロナ時間の課題図書

 

緊急事態宣言が出て、ついにすべての仕事がなくなり、収入もなくなり、目の前に真っ白な1カ月間が広がった。いやはや。

お金がないのはたいへん困るけれども、まあジタバタしてもどうにもならない。仕事の再開を待つしかない。国の給付金ってやつは、なんか宝くじに当たる確率のような気がする。文句は言い続けないといけないと思うけれど。

とにかく時間はどっさりある。自分が気持ちよく、楽しくなる方向で過ごさないと。

昔から計画を立てるのは大好きだ。実行がてんでともなわないが。

8時起床、午前1時までには就寝の規則正しい生活を送り、午前中は部屋の片づけ、整理整頓、掃除、洗濯。散歩を兼ねた買い物。お昼ご飯を食べて、『故人の食卓』のための1時間、14時から19時まで日英仏読書。なんかかっこいいけど、まあ概ね日。でも英仏も必ずはさむこと。夕ご飯を作り、テレビ見て、映画観て、就寝。

これが1カ月続いたら、部屋はすっきり心地よくなり、溜まりに溜まった未読本は少々減り、HDDに溜まった録画はかなり減り、溜まりに溜まった未見映画もそれなりに減り、なんだかすんばらしいことになりそうだけど……。

きのう早々に仕事を終えてうちに帰ってきて、どこかもあっと不安だった。たぶん経済的なことも基盤にあるとは思うけれど、それよりも、なんか1カ月ひとりぼっちなんだなあと。だいじょうぶ、私には山ほど本と映画がある。でもなんか、胸の表面がざわざわする。

これがふたりだったら、彼がいたら、おおーっ、何して遊ぼう、どんなごちそう作ろうって、わくわくしたのだろうなあ。

案の定、初日から全然予定どおりに行ってない。

でもまあ、自分にやさしく。

バリからの帰国 富士山とお月様

ダイビングのない帰国日は、たいてい朝食メニューの中からナシゴレンを選ぶ。宿のナシゴレンは美味しいし、おなかいっぱいになってもOKだから。しかし、2020年3月11日の朝はなぜかあんまり食欲がなくて、半分ほどしか食べられなかった。

飛行機は16時過ぎ発で、バンコクでの乗り継ぎが22時半頃。どこでどうご飯が出るのか微妙。空港に行く途中、近所のアラムゼムポールという日本人経営の石鹸屋さんに寄ってもらうので宿を出るのは11時半。早めの昼ごはんを食べておかないとややこしいぞ。

 

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で、珍しくこんなものを。インドネシア産ポテチは海苔塩味。炭酸飲料を一度に2缶も飲むなんて何十年ぶりとか? なんでこうなってしまったんだろね。

 

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空港まで送ってもらう途中で、私のお気に入りの洗顔石鹸の車に遭遇。去年斜向かいのスーパーで買ってとてもよかったので、今年は5個も買ったぞ。

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こんな小ぢんまりした車で営業活動とかしているのかなあ。

 

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空港では案の定というか、マスクや消毒スプレーを販売。3枚で¥500強というのはバリの物価からしたらかなり高い気がするけど、まあ空港だしなあ。でも買わず。

 

帰路は往路より以上にどこも空いていて、スムーズ。接触不要の体温計で熱は計られたけど。あれ便利だよなあ。日本にも普及するといいのに。

 

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タイ航空に乗って早々、斜め前方の席のインド系とおぼしき少女(身長は1m70くらいある)が、機内食は断ってでっかい容器を取り出し、ドラゴンフルーツらしきものをむしゃむしゃ食べ始める。フルーツをこんなふうに持ち込むのはご法度のはずだけど、堂々とそれのみひたすら食べる。

 

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一段落したら、クマのぬいぐるみを取り出した。

 

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配られたおつまみ?は玄米せんべい!

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タイの農家を支援しよう、的な。

ややふわっとしていて、そんなに美味しくはなかった。個人の感想ですけど。

ちなみに乗り継ぎのANA便でもこれが出た。

 

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機内食に目もくれぬインド系少女は再度フルーツを取り出した。だ〜いぶ減ってる!

完食まで見届けたかったけど、私が寝てしまって果たせず。

 

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機内食に銀杏入ってた!

タイの人も銀杏食べるのかな。

 

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バンコクの空港閑散。

新空港、なんか好きになれない。

人も建物も冷たい。

私の(勝手な)タイのイメージと違う。

シートの紫はタイっぽいけど。

 

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ヘンテコなオブジェ、なんていうと仏罰が当るかな。

 

ガラガラの飛行機で羽田へ。

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朝焼けと富士山。やはりちょっとうれしい。

 

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お月様と富士山。 

 

今回学んだこと

人が少ないと移動のストレスはぐっと減る。

ただし今回は、発熱してたら隔離かも、などと、別のストレスがあった。閑散としたバンコクの空港はちょっと、SFちっくだった。

実際、日程が少々ずれていたら、かなりややこしいことになっていたかも。やれやれ。こんな大ごとになっていくとはね。

世界は危うい。

 

p.s.

帰ってきて、納豆売り切れで、腹が立った!

買い占めるなよ、バカ、バカ、バカ!