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タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

馬たちよ、それでも光は無垢で

馬たちよ、それでも光は無垢で

 

塾の課題です。お題は 3.11 本。バタバタのうちに時間がなくなり、近所の古本屋めぐりでなんか見つかるべーと思ったら、簡単に見つかったけど、えれー目に遭いました。

提出したものは↓

 

小説の必然、必然の小説

 古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社2011年)は、帯の〝最新長編〟(注)の文字がなければおそらく誰も小説とは思わない、中盤までずっと震災直後からの著者の身辺雑記及び心情の吐露が続くのを小説と言い張る奇妙な作品だ。

 ショック状態の中で時間の単位が消失し区切りが消えてしまったような「神隠しの時間」の焦燥と不安が、たたみかけるような性急なリズムで綴られていく。福島県出身の作家である古川の苦悩は深い。いったいいつ物語が始まるのだろうと少し身構え当惑しながら、私はこの「小説」を読み進めていく。そして62ページ目にしてついに古川の以前の小説、作家自身がメガノベルと名づけた大長編の登場人物が現れる。<書け。私はこれを書け。(中略)しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。この文章が小説になってしまう。>ええっ、どっちやねん、どないやねん!と大阪人は全員つっこむと思う。さておき。

 <次第に瓦礫とは、〝瓦礫〟でない事物の百もの千ものの集まりなのだと認識する。> <私たちが歩いていると私たちは被災のその現場の地面に、砂に、足跡を残した。すると侵しているのだと感じないではいられなかった。穢しているのだと感じないではいられなかった。>などの繊細な記述に、作家が震災直後の被災地を記録する、それで十分ではないかと凡人読者は思うのだけれど、<この文章を決定的な〝本物〟にすることで私は何かの、やはり決定的な救済を望んだのだ>と述べつつ、小説家として見えないものを見、聞こえないものを聞くべく、古川は狗塚牛一郎なる『聖家族』の主人公に語らせる。と思えばいつの間にかまた作家が前面に出て、<私たちは人殺しの歴史しか持たない>と戦国武将を語り、無意識の隠蔽のための濾過装置である正史ではなく、きちんと揺らぎとして機能する稗史、外史によって東北を描く必要性を説く。

 <「物語が必要か? 」>と牛一郎はまた語りだすが、それは物語というよりは馬をめぐる日本の、東北の歴史解説じみて、相馬氏の築城史の最後には福島の原子力発電所……築城はひたすら続く、で「物語」はいったん中断。古川はニューヨークへ行き、311に911オサマ・ビン・ラディンの殺害が重なり、再び被災地へと時間軸は戻って、牛一郎は時空を旅して数々の馬に出会い、最後には彼も「物語」から消えて飢えた白馬一頭。

 「物語」が「小説」が液状化して、作家の貼るレッテルだけでかろうじて体(てい)を保っている。それでも小説家はあくまで愚直に「小説」を書こうとあがく。そのあがきは生々しくも誠実だ。

 あの震災がなければこのような液状化小説が発表されることはなかっただろう。その意味でこの「小説」は100% 「311小説」だ。

 (注)現時点ではすでに最新作ではなく、本作で書けない書けないと言っていた古川氏はその後10作も発表している。ご安心ください。

 

 〝間違いだらけの課題本探し〟というタイトルでもよかったかしらん、でしたが、意外や、あの書評の書きにくい古川日出男でよく書けましたと、先生に褒めていただきました ♪  幸せ〜 ♪

 しかし、私はたまたま間違った古川日出男を選んでしまったのだと思っていたけれども、どうも、古川日出男は多かれ少なかれこうなのかなー、むむむむ、古川日出男