タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

日常に侵入する自己啓発

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

塾の課題で選んだ本です。

 

向上心の行方

 前回の講座で『日常に侵入する自己啓発』(牧野智和 勁草書房)が紹介されたとき、サブタイトルの〝生き方・手帳術・片づけ〟にドキッとした。自己啓発本なんて自分とは無縁のくだらないものとして眼中になかったのが、生き方はさておき、手帳術、片づけとなると、いやいやしっかり侵入されているのではないかと、急に不安になってきた。

 自己啓発のお好きな〝気づき〟という言葉を目にしただけで、気色悪くて「さぶいぼ出るわ〜」(=鳥肌が立つ)な私であったのに!

 自分の中に実際、自己啓発的なるものは密かに根づいているのか? 恐いもの見たさもあって、早速『日常に侵入する自己啓発』を読んでみた。

 本書が取り上げるのは男性向け年代本(年代ごとに生き方の指針を示す書籍)、女性向け年代本、手帳術(時間管理)、片づけ(空間管理)の四系列の自己啓発書だ。そのどれにも共通するのはまず、前提となる価値観を自明のこととして一切疑わない点。男性向け年代本なら〝仕事における卓越〟、女性向け年代本は〝自分らしさの追求〟、手帳術は〝手帳というツールを意識的に活用することを通じての時間管理(による仕事における卓越、あるいはよりよい人生)〟、片づけでは〝捨てるという行為を通じての自己変革、さらには私的空間の浄化〟。どれもが自己とその時間、空間の管理を通じて達成可能な目標とされている。< 自覚なき日常生活への埋没 >(p118)が批判され、<ただ自分自身を変えることで世界が変わるという「ひとり革命」への終わりなき従事>(p116)が煽られる。< 自らがその影響をコントロールできるような解釈の枠組みを、現前にひらける世界のあらゆる対象へと付与し、逆にそれでもコントロール不能なものはノイズとして排除する。だからこそ幾度か述べたように、「社会」は変えられないものとしてあっさりと思考停止の対象とされてしまうのである >(p289)いやはや。

 著者によれば、自己啓発書が出版市場で高い位置を占めるようになったのはここ十数年のことだという。自己啓発書の読者は大卒者、正規雇用、ホワイトカラー層が中心で、「ミドルクラス・カルチャー」なのだということも示される。ここ十数年来の日本のミドルクラスの世界観がこれかと暗い気持ちになりそうだが、一方で自己啓発書が < 緩やかに、暫定的に、入れ替え可能なかたちで、継続的な確信なしに読まれ、とりいれられる > < 薄い文化 >(p44)という指摘もある。「今ここを底上げするためのビタミン剤のようなもの」というのは木村俊介氏の表現だが、生真面目で健気な人たちの向上心がするすると、既存の枠組みを揺るがす恐れのない安直な方向へ吸い込まれていく図式を見るようだ。

 また、パートナーへの配慮のなさ、ひたすら自分、自分、自分の、他者への視線の不在も自己啓発書の特徴で、現代日本人の家族関係・人間関係の寒々とした光景が浮かんでくるようでもある。

 そこで対照的な一冊として思い出したのが『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(岡檀 講談社 2013)だ。徳島県南部の太平洋沿いにある小さな町が、全国でも極めて自殺率の低い「自殺〝最〟希少地域」であることの理由を、著者が四年間に渡って調査した記録である。本書で印象的だったのは、夕方には仕事を終え、近所で集まって持ち寄った料理と酒で楽しくおしゃべりして、翌日また仕事へという町の人々の暮らしぶりだ。そこには自己啓発書が提唱するモノクロニックな時間 、< 時間を細かく分断し、スケジューリングし、「一度にひとつのことだけに集中」し、時間の節約を重視して浪費を戒める >(P209)ではなく、ポリクロニックな時間 、< 時間を実体視せず、現在のスケジュールを守るよりも、人間の関わり合いと、相互交流に力点を置く >(同)が息づいていることが感じられる。五年も前に読んだ本で正直細かい内容は忘れてしまっているのだが、< こだわりを捨てる 〝幸せ〟でなくてもいい > といった小見出しからも、自己啓発書とは対極的な世界観がうかがえる。別に誰に勝たなくてもいい、自分らしさなんかたいしたことじゃない、向上心なんかなくてもいいと、のんびり思えてくる。

 さて、こうしてあれこれ文句を言っている私の中に、自己啓発的なるものは侵入しているのだろうか? 恥ずかしながら、手帳術に取り上げられている代表的な手帳のうち二種を購入したことがあり(うち一種は現在使用中)、片づけ本もさすがに購入はしないものの、あまり人生論に引きつけない技術論的なものは何冊か図書館で借りたことがある。これはもう侵入していると認めざるを得ないだろう。そもそも私の中に潜んでいる、なにか便利な道具や画期的な方法論を見つけたら、自分が抱えている問題はするり解決するのではないかという発想が、自己啓発的なのだと気づかされた。さらに、女性に幼少期から埋め込まれる、不潔のレッテルを貼られたらおしまい、という心性も、片づけ教を支えているのだろう。そして、私もそこから自由ではない。

 一方で、近年流行のミニマリズムにも通じる、この〝ものを捨てなきゃヒステリー〟はなんなのだろうとも思う。一昔前ならば、ものをたくさん持っていることは誇るべきこと、豊かさの印であったはずなのに。たとえば小津安二郎東京物語』に出てくる、原節子演じる未亡人の質素この上ない一間暮らしは、豊かな者が無理から削り取って作ったシンプルな住居とは明らかに違う。

「清らかな空気の流れる静かな空間で、あったかいハーブティーカップに注ぎながら、今日一日を振り返る至福の時間。まわりを見渡すと、壁には海外で買ったお気に入りの絵がかかっていて、部屋の隅にはかわいいお花が生けてあります。そんなに広くはなくてもときめくモノしか置かれていない部屋で過ごす生活は、私をとっても幸せな気持ちにしてくれます」(p223)

 これを読んで、素直に素敵♡と思う人もいるのだろう。私は、けっ、気色悪っ、こういう人って必ずハーブティー飲むよな、海外で買った、が自慢なわけだ、ときめくモノって、なんだよこのカタカナ、あ〜薄っぺらー、やだやだ、こんな無菌室みたいな部屋、と毒を吐く。

 < 精神的に向上心のない者は馬鹿だ >は夏目漱石『心』のせりふだが、基本的にはよきもののはずの向上心がなんだか妙なところへ回収されてしまう。いや、そもそも無条件に向上心を奉ること自体、おかしいのかもしれない。四国の小さな町の人々のように、楽しく生きていければいちばんいいのかもしれない。それでも、むしろ私のように小心な人間に限って向上心を抱かずにはいられないのだとしたら、その向上心のめざす先の意味を問うこと、根拠のない権威に額突かないこと、深くものごとを考えようと愚直に努めることが、自己啓発の侵入への防波堤なのかなと。

 でも、私はやっぱりもう少し、整理整頓をして部屋を片づけるべきだよなあ。いいやり方はないかなあ、とまた、自己啓発の罠が口を広げている。