彼はいったい何回、私にオムライスを作ってくれただろう。あのオムライスが食べたいよ。
いつも楽しそう、と言われて、いえいえ、身に余る不幸なので、と答える。不幸の札をおでこに貼って生きていくわけにもいかない。
あの頃は毎朝、目を開いた瞬間から不幸だった。悪い夢でした、ちゃんちゃん、とはならない。病状は日々、ほぼ直線的に悪化していく。
朝、目を開くと先に起きている彼が「相変わらずブサイクやな」とつぶやく。幸せというのは、そういう日常だったのだな。
ごくごく平凡な悲劇。今この瞬間も世界のあちこちで、医師たちは「もう打つ手は何もありません。余命××です。」と告げている。
一方で、最後まであきらめない人に奇跡の回復が訪れる、というストーリーが流通していて、諦念も絶望も許されない宙づり。
しゃがみ込んで「助けて」と叫びたい。でも、誰にも助けられないとわかっている。誰にも助けられない。誰にも助けられない。誰にも助けられない。でも、助けて、助けて、助けて。彼を? 私を?
何も意味はない。プツンと虫をつぶすように人は死んでいく。死ねば消える。居場所はのこった人の記憶の中だけ。
人を喪うことは意味を喪うことなのだ。世界は無意味、しんしんと無意味。音がしない。
世界が少し傾いて戻らない。傾いた世界で傾いた視界で何をすればいいのか。玉はいつもどこかへ転がってしまう。
人がひとり消えた穴など、たちまちするりと埋まってしまう。今日も世界は進んでいく。時計はチクタク進んでいく。
エンド・オブ・ザ・ワールドという古いポッブ・ソングがある。恋人にふられて「なんで太陽輝いてんの? 普通に波、打ち寄せてんの? 世界の終わりだぞ、わかってんの?」と怒っている歌だ。改めて歌詞を全部読んでみた。すごい、私の気持ち、丸まんまだ。パンク・ヴァージョンにアレンジしてカラオケでひとりシャウトしたい。掛け替えのないものを喪った人たちが、ひとりひとり狭いブースで、地球の自転を止めんばかりにこの曲をシャウトする光景。
痛みというものが存在する、ということと、でもそれを共有することはできない、ということと、そしてそれを共有できないということをみんな知っている、ということと。(岸政彦)
岸さんは最近、長年ともに暮らした猫を亡くされた。
2011年の夏に父を亡くして、毎朝祈るようになった。無宗教だけれど何もないのもなんなので、花と写真を飾っている。今では祈ることもいろいろ増えた。ろうそくを灯し、お線香をあげて、鐘を鳴らす。まず、彼に四つほど要望を告げる。次に父に詫びる。育ててくれた祖母、可愛がってくれた叔父、会ったことのない彼の母に、呼びかける。難病の友人の治癒を願う。私が食べていけますようにと祈る。おしまい。
死後の世界があったらどんなにいいだろう。亡くなった人たちはみんな、私に都合よくにこにこしている。
喪失感の底にうずくまるような状態のときに、いちばん救われた言葉は、まあなんとかなるか、だった。何の根拠もない言葉だけれど、初めて少し心が軽くなった。結果なんとかならなくても、なんとかなるか、と言ってくれた人には、きっとずっと感謝している。
君去りしのち、というのは確か、ずっと昔に読んだSF短編小説のタイトル。作者も内容も覚えていない。ただ、特に凝ったものでもないタイトルだけが、ずっとどこかに引っかかっていた。
元気なときから、私より先に死んだら殺す、と脅していたのに、何の甲斐もなく。
たいせつなたいせつな人を失って3年がたちました。ほとんどなにも片づかず、おばけも一度も出てくれず。神も仏も超常現象もないなあ。