タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

さざなみのよる

さざなみのよる

 

塾の課題です。

木皿泉のドラマはほぼ全部観ているし、ふたりの生活ぶりを描いたドキュメンタリーはとにかくその本だらけのおうちが好きで、5回くらい繰り返し観ている。ので、小説も楽しみだったのだけれども……

 

自分で考えていたのより百倍幸せだった

  ぐっと上半身を折り、フィンをはいた両脚を高く掲げて、まっすぐ水に突き刺ささる。体がすっと海の中に沈んだら、ゆっくりと力強く水を蹴り、浮力を突き抜ける。五メートルほど潜って、息が苦しくならないうちにまた体を縦にし、今度は光りの差すほうを仰ぎ見て、海面をめざす。

 木皿泉『さざなみのよる』で、ガンで死んでいくナスミは死の間際、自分は井戸の底へと落ちていく石だと気づく。<いや、やっぱり上か。水面は自分のはるか上にあるような気がした。いま、ようやくそこに到達したのだ、水面の上がどうなっているか、まるで想像もつかないけれど、すべすべの自分は、そこを突き破ってゆくのだろう。> ナスミの死は、素潜りで海面に戻る瞬間のようだ。これなら死ぬのも悪くない、よな気もする。

 『さざなみのよる』ではナスミの死というひとつの欠如をめぐって、さまざまな人々の物語が紡がれていく。ナスミはしだいにほとんど神様仏様みたくなっていき、ま、死んだんだから仏様でいいのかもしれないし、いい話がいっぱいだけど、いい話がいっぱいすぎる感もある。むしろなんだか心に残るのは、中学時代にナスミと家出しそこねた清二の <こうやって、昼下がり、ポテトを食べながらコーラを飲んでいる二人が悲しみの真っ只中にいるなんて、そのことについて話しているなんて、誰も知らないのだ> という独白だったりする。不幸でございは人迷惑だから、不幸は簡単に日常に紛れてしまう。

 本書の元となったテレビドラマ『富士ファミリー』の中でとても好きだったのは、ナスミの妹の月子と蕎麦屋で出会った吸血鬼青年のエピソードだ。吸血鬼は今時のお兄さん風で、広々としたマンションに住み、自称〝投資家〟、月子を旅に誘いつつ、自分は実は吸血鬼だと告白して、永遠の命をあげると、月子の首筋を噛みにくる。初心者じゃないから、大丈夫、痛くないからと。月子が拒むと、吸血鬼は本当に驚いて、不思議そうに、目に涙を浮かべて、「噓じゃないよ、永遠の命がもらえるんだよ、後悔するよ」と言う。夫にも今の生活にもいろいろ不満のある月子だけれど「そうかもね。でも、私はみんなと限られた命を生きていくわ」と答える。ここで胸にしみるのは、永遠の命の価値を信じて疑っていなかった吸血鬼の姿。

 死と幸福と不幸をめぐる物語、といえば、人生のすべてのようでもある。格別何者でもないナスミのあまり長くなかった人生が、いろんな人に光りを注ぎ、つないでいく。私も <あの頃の自分に教えてやりたい。あんたは自分で考えていたのより百倍幸せだったんだよって。> そして、人をそのように幸せにできた人の人生は、ナイス・ナイス・ベリー・ナイス(©カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』)だと思う。

 

 我ながら奥歯にもののはさまったような文章ですみません。

 話としてできすぎてしまっている感もあるせいか、毛嫌いする人もいて大酷評もありました。そんな中、これは現代の仏教説話、ととらえた方がいて、新鮮でした。

 年配の女性書店員さんの支持が高いそうです。

 ほとんどの人間が格別何者でもない者として生きて死んでいく中、そんな生にも死にも意味はあると、しっかり肯定してくれる物語が求められているんだろうなあ。

私もまた、そういう物語を求めているひとりだろうし。ただ、木皿泉さんはあんまりいい話系に行ってしまうとちょっと、と思ってしまう。ここがギリの感じです。ドラマだとまた違うのかもしれないけれど、小説はこのへんがギリでしょう。

 

ナイス・ナイス・ベリー・ナイスでしかと合っているか調べてみたら(文庫本を即座に発見できなくて)なんと、ヴォネガット本人が歌っているのを発見!


「かりぷそ ボコノン讃美歌第53番」うた:カート・ヴォネガット