タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

GO

GO (角川文庫)

 

塾の課題です。

 

100%の男の子

 

  金城一紀『GO』は1ページ目で早くも<これは僕の恋愛に関する物語だ>と宣言するけれども、その後随所にムラカミハルキ文体臭をまき散らしながら展開する物語において、いわゆる〝恋愛〟はなんだかなあ、である。猛烈にケンカの強い在日韓国人高校生杉原の前に、ハルキ的に言えば100%(魅力的? 理想的? 完璧?)の女の子、桜井が颯爽と登場する。<国籍とか民族を根拠に差別する奴は、無知で弱くて可哀想な奴>と<差別されても全然平気だった>杉原が、惚れた弱み、桜井に対しては素性を打ち明けて嫌われるのが怖くなる。そして結局打ち明けて、<韓国とか中国の人は血が汚い>とお父さんが言ってた(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)という理由で拒まれる。桜井、とんがったカルチャー女子じゃなかったのかよ、高校生にもなって親の言うことまんま鵜呑みのバカか、なんてことは、もちろん主人公は思わない。そして、物語の最後に桜井はあっさり改心して、<もう杉原が何人だってかまわないよ> (←依然上から目線)ちゃん、ちゃん♪ 

 薄っぺらな展開だ。似非100%女め。しかし、この小説では主人公にとって100%の男の子の物語もまた展開する。<ぼくたちは国なんてものを持ったことはありません> 正一/ジョンイルの登場は鮮烈だ。朝鮮籍から韓国籍に変えて日本の高校に進学すると決めた杉原を〝売国奴〟と罵り、殴り蹴る民族学校の教師に〝開校以来の秀才〟正一は敢然と言い放つ。彼の名が金正日と同じジョンイルであることも、読む者の胸に焼き付く。

 以来、親友となった杉原と正一の交遊は杉原と桜井の交際と相似形ともいえる。好きな本や映画、音楽について語り合い、互いのお気に入りを交換し合う。正一が実は杉原の〝肝試し〟(電車との命懸けのかけっこ)を目撃していて、<俺が女だったら絶対に惚れる>と思うのも、桜井がバスケットの試合と乱闘での杉原の身体性に魅せられたのと共通している。しかし、杉原と同じ〝外国人〟である正一(ハーフだけど)は、在日朝鮮人/韓国人としての自分と杉原の役割をしっかりと見据えてもいる。<後輩たちが広い場所に出ていける>ようにするための、行動と知識、解放と思索の両輪としての自分たちの役割を。自分とは対極の存在としての杉原。まったく違うからこそ、正一はほんとうに杉原が好きだったのだ。

 桜井との安易なハッピーエンドとは対照的に、在日韓国人ゆえに巻き込まれた事件で、正一は永遠に失われてしまう。その死の間際、正一が線路のほうに視線を向けていたと聞いて、杉原は<正一は間違いなく線路を駆け抜ける僕の姿を見ていたのだ><きっとそうだ、そうであってほしい>と願う。

 言葉の本質的な意味において、もう恋愛じゃないか、これは。

 正一が杉原に絶対に聞いて欲しかった<すげえこと>は永遠に宙づりの謎となった。その切なさを前にして、桜井との結末などケッ、である。これは杉原と正一の〝恋愛〟の物語だったのだ。

日常に侵入する自己啓発

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

塾の課題で選んだ本です。

 

向上心の行方

 前回の講座で『日常に侵入する自己啓発』(牧野智和 勁草書房)が紹介されたとき、サブタイトルの〝生き方・手帳術・片づけ〟にドキッとした。自己啓発本なんて自分とは無縁のくだらないものとして眼中になかったのが、生き方はさておき、手帳術、片づけとなると、いやいやしっかり侵入されているのではないかと、急に不安になってきた。

 自己啓発のお好きな〝気づき〟という言葉を目にしただけで、気色悪くて「さぶいぼ出るわ〜」(=鳥肌が立つ)な私であったのに!

 自分の中に実際、自己啓発的なるものは密かに根づいているのか? 恐いもの見たさもあって、早速『日常に侵入する自己啓発』を読んでみた。

 本書が取り上げるのは男性向け年代本(年代ごとに生き方の指針を示す書籍)、女性向け年代本、手帳術(時間管理)、片づけ(空間管理)の四系列の自己啓発書だ。そのどれにも共通するのはまず、前提となる価値観を自明のこととして一切疑わない点。男性向け年代本なら〝仕事における卓越〟、女性向け年代本は〝自分らしさの追求〟、手帳術は〝手帳というツールを意識的に活用することを通じての時間管理(による仕事における卓越、あるいはよりよい人生)〟、片づけでは〝捨てるという行為を通じての自己変革、さらには私的空間の浄化〟。どれもが自己とその時間、空間の管理を通じて達成可能な目標とされている。< 自覚なき日常生活への埋没 >(p118)が批判され、<ただ自分自身を変えることで世界が変わるという「ひとり革命」への終わりなき従事>(p116)が煽られる。< 自らがその影響をコントロールできるような解釈の枠組みを、現前にひらける世界のあらゆる対象へと付与し、逆にそれでもコントロール不能なものはノイズとして排除する。だからこそ幾度か述べたように、「社会」は変えられないものとしてあっさりと思考停止の対象とされてしまうのである >(p289)いやはや。

 著者によれば、自己啓発書が出版市場で高い位置を占めるようになったのはここ十数年のことだという。自己啓発書の読者は大卒者、正規雇用、ホワイトカラー層が中心で、「ミドルクラス・カルチャー」なのだということも示される。ここ十数年来の日本のミドルクラスの世界観がこれかと暗い気持ちになりそうだが、一方で自己啓発書が < 緩やかに、暫定的に、入れ替え可能なかたちで、継続的な確信なしに読まれ、とりいれられる > < 薄い文化 >(p44)という指摘もある。「今ここを底上げするためのビタミン剤のようなもの」というのは木村俊介氏の表現だが、生真面目で健気な人たちの向上心がするすると、既存の枠組みを揺るがす恐れのない安直な方向へ吸い込まれていく図式を見るようだ。

 また、パートナーへの配慮のなさ、ひたすら自分、自分、自分の、他者への視線の不在も自己啓発書の特徴で、現代日本人の家族関係・人間関係の寒々とした光景が浮かんでくるようでもある。

 そこで対照的な一冊として思い出したのが『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(岡檀 講談社 2013)だ。徳島県南部の太平洋沿いにある小さな町が、全国でも極めて自殺率の低い「自殺〝最〟希少地域」であることの理由を、著者が四年間に渡って調査した記録である。本書で印象的だったのは、夕方には仕事を終え、近所で集まって持ち寄った料理と酒で楽しくおしゃべりして、翌日また仕事へという町の人々の暮らしぶりだ。そこには自己啓発書が提唱するモノクロニックな時間 、< 時間を細かく分断し、スケジューリングし、「一度にひとつのことだけに集中」し、時間の節約を重視して浪費を戒める >(P209)ではなく、ポリクロニックな時間 、< 時間を実体視せず、現在のスケジュールを守るよりも、人間の関わり合いと、相互交流に力点を置く >(同)が息づいていることが感じられる。五年も前に読んだ本で正直細かい内容は忘れてしまっているのだが、< こだわりを捨てる 〝幸せ〟でなくてもいい > といった小見出しからも、自己啓発書とは対極的な世界観がうかがえる。別に誰に勝たなくてもいい、自分らしさなんかたいしたことじゃない、向上心なんかなくてもいいと、のんびり思えてくる。

 さて、こうしてあれこれ文句を言っている私の中に、自己啓発的なるものは侵入しているのだろうか? 恥ずかしながら、手帳術に取り上げられている代表的な手帳のうち二種を購入したことがあり(うち一種は現在使用中)、片づけ本もさすがに購入はしないものの、あまり人生論に引きつけない技術論的なものは何冊か図書館で借りたことがある。これはもう侵入していると認めざるを得ないだろう。そもそも私の中に潜んでいる、なにか便利な道具や画期的な方法論を見つけたら、自分が抱えている問題はするり解決するのではないかという発想が、自己啓発的なのだと気づかされた。さらに、女性に幼少期から埋め込まれる、不潔のレッテルを貼られたらおしまい、という心性も、片づけ教を支えているのだろう。そして、私もそこから自由ではない。

 一方で、近年流行のミニマリズムにも通じる、この〝ものを捨てなきゃヒステリー〟はなんなのだろうとも思う。一昔前ならば、ものをたくさん持っていることは誇るべきこと、豊かさの印であったはずなのに。たとえば小津安二郎東京物語』に出てくる、原節子演じる未亡人の質素この上ない一間暮らしは、豊かな者が無理から削り取って作ったシンプルな住居とは明らかに違う。

「清らかな空気の流れる静かな空間で、あったかいハーブティーカップに注ぎながら、今日一日を振り返る至福の時間。まわりを見渡すと、壁には海外で買ったお気に入りの絵がかかっていて、部屋の隅にはかわいいお花が生けてあります。そんなに広くはなくてもときめくモノしか置かれていない部屋で過ごす生活は、私をとっても幸せな気持ちにしてくれます」(p223)

 これを読んで、素直に素敵♡と思う人もいるのだろう。私は、けっ、気色悪っ、こういう人って必ずハーブティー飲むよな、海外で買った、が自慢なわけだ、ときめくモノって、なんだよこのカタカナ、あ〜薄っぺらー、やだやだ、こんな無菌室みたいな部屋、と毒を吐く。

 < 精神的に向上心のない者は馬鹿だ >は夏目漱石『心』のせりふだが、基本的にはよきもののはずの向上心がなんだか妙なところへ回収されてしまう。いや、そもそも無条件に向上心を奉ること自体、おかしいのかもしれない。四国の小さな町の人々のように、楽しく生きていければいちばんいいのかもしれない。それでも、むしろ私のように小心な人間に限って向上心を抱かずにはいられないのだとしたら、その向上心のめざす先の意味を問うこと、根拠のない権威に額突かないこと、深くものごとを考えようと愚直に努めることが、自己啓発の侵入への防波堤なのかなと。

 でも、私はやっぱりもう少し、整理整頓をして部屋を片づけるべきだよなあ。いいやり方はないかなあ、とまた、自己啓発の罠が口を広げている。

野火 again

野火(新潮文庫)

塾の課題です。

 

とりあえず、神で間に合わせておく  

 

 大岡昇平『野火』を最初に読んだときは、兵士失格病人未満と分類された主人公が、軍隊という激烈な抑圧装置からはじき出された、その絶望的状況の中での開放感が印象的だった。しかし、今回再読してみると、そんなことよりもう、なんだかへんてこなのだ。

 主人公は最下層の兵士だが、とっても理屈っぽい。インテリである。冒頭、自分を殴った上官の心理をクールに分析してみせるところからもう、飢えて病気でも知性絶好調。<兵士は一般に「わかる」と個人的な判断を誇示することを禁じられていた> なんて、さらり小粋に日本軍の体質を示してくれる。病院を追い出された、行き場のない兵士たちの中で、弱虫と腹黒が身の上話でしんみりする場面も、主人公の知のフィルターを通すと <若い気の弱い女中の子が、シニックな女中強姦者の養子となった> と片なしだ。

 そもそもインテリ主人公の教養ははっきり偏っている。和風調ムードがまったくない。ひたすら西洋かぶれだ。エピグラフが <たとえわれ死のかげの谷を歩むとも>(神さまが守ってくれはりますねん)で、小説を結ぶ言葉は<神に栄えあれ>。途中にもばんばん〝神〟は出てくるけれど、これはキリスト教小説かと問われれば、なんか〝ジーザス〟ってカタカナで書いたTシャツを着ている人みたいな小説と言っておきたい。

 思春期に性欲への罪悪感から一時キリスト教にかぶれた飢餓&病人(なのにやたらと移動する)主人公(推定年齢30代前半)は幸運にもたっぷり食糧のある場所にたどりついたのに、下の町の〝十字架〟検証のためにのこのこ出かけていく。その後も〝塩〟だの〝野の百合〟だの露骨なキリスト教アイテムが頻出し、神本体も暗躍する。主人公が人肉を食べようとするときにストップをかけるのが神の役目だ。(うすうす勘づきつつ食べるのはOKらしい。)そして、殺したての人肉を前に嘔吐した主人公は <私はもう人間ではない。天使である。> とえばる! 食べない私、食べずにすんだ私は、神に愛された、神に守られた私、というわけだ。この主人公の理屈では。

 最初に信仰があったのではなく、人肉食回避のための神 / キリスト教利用。手持ちの道具で間に合わせてやりくりする、一種のブリコラージュかもしれない。

 最後は唖然の狂人オチ。しかし、おおー神がー、とか大仰なところ以外はさして狂人めいてもいない主人公である。人肉に手を出す寸前まで行ったのは、正常な私ではない、狂気ゆえ、という理屈か。<医師は私より5歳年少の馬鹿である。> まんまと騙したか。

 殺して食べるのはさておき、おなかがすいて死にそうなら、死んだ人の肉は別に食べてもいいんじゃないかい、と思う私である。

 結局我らが主人公は、兵士として戦地に赴き、犬一匹、フィリピン人女性ひとり、戦友ひとりを殺した。戦没者のうち餓死者が6割以上という戦争は、そういう戦争なのだろう。

 

 人肉食にこれだけこだわっておいて、罪もないフィリピン女性を殺したことにはなんら懺悔の気持ちはないのか、という意見も多かったけれど、この人肉、人肉の大騒ぎがむしろ、民間人を殺したことへの罪悪感を糊塗するための装置ではないか、なんて気もしてきたりして……へんてこな分、いろんな読み方のできる小説です。世間的にはそう思われていないんだろうけど。

君去りしのち

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彼はいったい何回、私にオムライスを作ってくれただろう。あのオムライスが食べたいよ。

 

  いつも楽しそう、と言われて、いえいえ、身に余る不幸なので、と答える。不幸の札をおでこに貼って生きていくわけにもいかない。

 あの頃は毎朝、目を開いた瞬間から不幸だった。悪い夢でした、ちゃんちゃん、とはならない。病状は日々、ほぼ直線的に悪化していく。

 朝、目を開くと先に起きている彼が「相変わらずブサイクやな」とつぶやく。幸せというのは、そういう日常だったのだな。

 ごくごく平凡な悲劇。今この瞬間も世界のあちこちで、医師たちは「もう打つ手は何もありません。余命××です。」と告げている。

 一方で、最後まであきらめない人に奇跡の回復が訪れる、というストーリーが流通していて、諦念も絶望も許されない宙づり。

 しゃがみ込んで「助けて」と叫びたい。でも、誰にも助けられないとわかっている。誰にも助けられない。誰にも助けられない。誰にも助けられない。でも、助けて、助けて、助けて。彼を? 私を?

 何も意味はない。プツンと虫をつぶすように人は死んでいく。死ねば消える。居場所はのこった人の記憶の中だけ。

 人を喪うことは意味を喪うことなのだ。世界は無意味、しんしんと無意味。音がしない。

 世界が少し傾いて戻らない。傾いた世界で傾いた視界で何をすればいいのか。玉はいつもどこかへ転がってしまう。

 人がひとり消えた穴など、たちまちするりと埋まってしまう。今日も世界は進んでいく。時計はチクタク進んでいく。

 エンド・オブ・ザ・ワールドという古いポッブ・ソングがある。恋人にふられて「なんで太陽輝いてんの? 普通に波、打ち寄せてんの? 世界の終わりだぞ、わかってんの?」と怒っている歌だ。改めて歌詞を全部読んでみた。すごい、私の気持ち、丸まんまだ。パンク・ヴァージョンにアレンジしてカラオケでひとりシャウトしたい。掛け替えのないものを喪った人たちが、ひとりひとり狭いブースで、地球の自転を止めんばかりにこの曲をシャウトする光景。

 痛みというものが存在する、ということと、でもそれを共有することはできない、ということと、そしてそれを共有できないということをみんな知っている、ということと。(岸政彦)

 岸さんは最近、長年ともに暮らした猫を亡くされた。

 2011年の夏に父を亡くして、毎朝祈るようになった。無宗教だけれど何もないのもなんなので、花と写真を飾っている。今では祈ることもいろいろ増えた。ろうそくを灯し、お線香をあげて、鐘を鳴らす。まず、彼に四つほど要望を告げる。次に父に詫びる。育ててくれた祖母、可愛がってくれた叔父、会ったことのない彼の母に、呼びかける。難病の友人の治癒を願う。私が食べていけますようにと祈る。おしまい。

 死後の世界があったらどんなにいいだろう。亡くなった人たちはみんな、私に都合よくにこにこしている。

 喪失感の底にうずくまるような状態のときに、いちばん救われた言葉は、まあなんとかなるか、だった。何の根拠もない言葉だけれど、初めて少し心が軽くなった。結果なんとかならなくても、なんとかなるか、と言ってくれた人には、きっとずっと感謝している。

 君去りしのち、というのは確か、ずっと昔に読んだSF短編小説のタイトル。作者も内容も覚えていない。ただ、特に凝ったものでもないタイトルだけが、ずっとどこかに引っかかっていた。

 元気なときから、私より先に死んだら殺す、と脅していたのに、何の甲斐もなく。

 

 たいせつなたいせつな人を失って3年がたちました。ほとんどなにも片づかず、おばけも一度も出てくれず。神も仏も超常現象もないなあ。

 

さざなみのよる

さざなみのよる

 

塾の課題です。

木皿泉のドラマはほぼ全部観ているし、ふたりの生活ぶりを描いたドキュメンタリーはとにかくその本だらけのおうちが好きで、5回くらい繰り返し観ている。ので、小説も楽しみだったのだけれども……

 

自分で考えていたのより百倍幸せだった

  ぐっと上半身を折り、フィンをはいた両脚を高く掲げて、まっすぐ水に突き刺ささる。体がすっと海の中に沈んだら、ゆっくりと力強く水を蹴り、浮力を突き抜ける。五メートルほど潜って、息が苦しくならないうちにまた体を縦にし、今度は光りの差すほうを仰ぎ見て、海面をめざす。

 木皿泉『さざなみのよる』で、ガンで死んでいくナスミは死の間際、自分は井戸の底へと落ちていく石だと気づく。<いや、やっぱり上か。水面は自分のはるか上にあるような気がした。いま、ようやくそこに到達したのだ、水面の上がどうなっているか、まるで想像もつかないけれど、すべすべの自分は、そこを突き破ってゆくのだろう。> ナスミの死は、素潜りで海面に戻る瞬間のようだ。これなら死ぬのも悪くない、よな気もする。

 『さざなみのよる』ではナスミの死というひとつの欠如をめぐって、さまざまな人々の物語が紡がれていく。ナスミはしだいにほとんど神様仏様みたくなっていき、ま、死んだんだから仏様でいいのかもしれないし、いい話がいっぱいだけど、いい話がいっぱいすぎる感もある。むしろなんだか心に残るのは、中学時代にナスミと家出しそこねた清二の <こうやって、昼下がり、ポテトを食べながらコーラを飲んでいる二人が悲しみの真っ只中にいるなんて、そのことについて話しているなんて、誰も知らないのだ> という独白だったりする。不幸でございは人迷惑だから、不幸は簡単に日常に紛れてしまう。

 本書の元となったテレビドラマ『富士ファミリー』の中でとても好きだったのは、ナスミの妹の月子と蕎麦屋で出会った吸血鬼青年のエピソードだ。吸血鬼は今時のお兄さん風で、広々としたマンションに住み、自称〝投資家〟、月子を旅に誘いつつ、自分は実は吸血鬼だと告白して、永遠の命をあげると、月子の首筋を噛みにくる。初心者じゃないから、大丈夫、痛くないからと。月子が拒むと、吸血鬼は本当に驚いて、不思議そうに、目に涙を浮かべて、「噓じゃないよ、永遠の命がもらえるんだよ、後悔するよ」と言う。夫にも今の生活にもいろいろ不満のある月子だけれど「そうかもね。でも、私はみんなと限られた命を生きていくわ」と答える。ここで胸にしみるのは、永遠の命の価値を信じて疑っていなかった吸血鬼の姿。

 死と幸福と不幸をめぐる物語、といえば、人生のすべてのようでもある。格別何者でもないナスミのあまり長くなかった人生が、いろんな人に光りを注ぎ、つないでいく。私も <あの頃の自分に教えてやりたい。あんたは自分で考えていたのより百倍幸せだったんだよって。> そして、人をそのように幸せにできた人の人生は、ナイス・ナイス・ベリー・ナイス(©カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』)だと思う。

 

 我ながら奥歯にもののはさまったような文章ですみません。

 話としてできすぎてしまっている感もあるせいか、毛嫌いする人もいて大酷評もありました。そんな中、これは現代の仏教説話、ととらえた方がいて、新鮮でした。

 年配の女性書店員さんの支持が高いそうです。

 ほとんどの人間が格別何者でもない者として生きて死んでいく中、そんな生にも死にも意味はあると、しっかり肯定してくれる物語が求められているんだろうなあ。

私もまた、そういう物語を求めているひとりだろうし。ただ、木皿泉さんはあんまりいい話系に行ってしまうとちょっと、と思ってしまう。ここがギリの感じです。ドラマだとまた違うのかもしれないけれど、小説はこのへんがギリでしょう。

 

ナイス・ナイス・ベリー・ナイスでしかと合っているか調べてみたら(文庫本を即座に発見できなくて)なんと、ヴォネガット本人が歌っているのを発見!


「かりぷそ ボコノン讃美歌第53番」うた:カート・ヴォネガット

砂の女

砂の女 (新潮文庫)

塾の課題です。

けっこういけすかん作家のはずだったのに、意外やおもしろかった。

 

虫採りが虫採られ虫の男

 休暇で昆虫採集に出かけた男が失踪し、七年後、妻の申請により死亡の認定を受ける。実はその男は砂漠の村の穴の底で、幾度か脱出に失敗、現状依然砂掻き中、というのが安部公房砂の女』である。

 男は新種の昆虫発見を目論んで砂漠を訪れ、いとも簡単に野卑な村人の策略にはまって、砂の中に埋もれようとしている家々の一軒の、砂掻き要員にされてしまう。独白の中でさまざまな知識を開陳し、砂についての考察をめぐらせていた理屈っぽい男は、案外まぬけだったのだ。一人前の人間を昆虫みたいに罠にかけて捕らえるなんて、と憤慨するが、もちろん、ああ今まで自分がさんざんやってきたことの報いか、などとは考えない。それどころか、ただ黙々と砂掻きをする家の女の <後ろ姿を、虫けらのようだと思う>。虫けら大好きで、その虫けらのために砂漠へ来てこんなことになったくせに。男は教師なのだが、<教師くらい妬みの虫に取り付かれた存在も珍しい>と語り、水のように砂のように流れ去っていく生徒たちに対し、その流れの底で、教師だけが取り残されると嘆くが、これは囚われた男の現状そのままだ。女のさそいを<食肉植物の罠>と感じる男は、まさに虫である。もう虫決定。

 じゃあ、女はなんなのだろう。村人からは婆さん、と呼ばれていたが、男の見立てでは30前後だ。最初の朝の、顔に手ぬぐいをかけて全裸で寝ている姿、天井から漏れ落ちる砂に覆われた裸身の曲線は、まさに砂丘だろう。物語の中盤では村人から〝おかあちゃん〟と呼びかけられている。餌の虫を捕らえて若返ったか。妖怪か。男の目には、隷従を隷従と感じず、外界に関心がなく、ただひたすら〝家〟を守ろうとする存在のように映っている女だが、むしろ女自体が変幻自在の砂のようにも感じられる。なにしろタイトル、砂の女。だからこそ、女が穴から運び出されてしまうと、男は逃亡の意志を失ってしまったのかもしれない。(しかし、溜水装置。人は水のみにて生きるにあらず、と男に言ってやりたくなる。)

 そして、もうひとりの女、都会の女、たいてい傍点付きで〝あいつ〟と呼ばれる女。男には妻がいるはずだが、この〝あいつ〟をすんなり妻と受け取るには無理がある。男は下宿住いで、休暇に出る前にあいつに手紙を書き、投函せず机の上に置いてきた。やや苦しい設定だが、別居中の妻? あるいは〝あいつ〟が男の知らないうちに勝手に婚姻届けを出していた? 結婚の本質を<未開地の開墾>とする男に対して<手狭になった家の増築>と反論する女は、もはや〝砂の女〟と半分重なっている。失踪→妻の申請→死亡決定という物語の外側の大枠までもが砂でできていて、さらさらと角から崩れていくようだ。

 家のあらゆる隙間から入り込んできて、身体のあらゆる隙間に入り込む砂さながら、この小説世界もまた、踏み入ればずぶずぶと呑まれて底が知れない。砂遊びの地平は広大だ。砂砂砂……じゃりじゃりじゃり……。

T シャツ追悼

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私が「これもういいかな?」と訊くと、彼は「まだまだぁ〜」と答える。ものを捨てるのが苦手な私は誰かの承認が欲しいのだが、彼はなかなかそいつをくれない。自分の服にも、私の服にも。

 

人生ずっとごちゃごちゃしているから、ミニマリストの本を何冊か読んでみたけど、ほぼなんも役に立たなかった。私とはなんか違う人たちだった。まあ、そりゃ、違うわな。そんな中、唯一、ある種心の支えになったのは、叔母の遺品を整理した人の「その人はその人の持っていた物ではない」的な言葉だった。人は人、物は物、という考え方は、亡くなった人の物を捨てるとき、力になる。

 

さよなら、彼がよく着ていて、もうボロッちくなっているT シャツ。キースはしかも自転車だし、いいとして、君はなぜかこのヘンテコなおじさん(?)を気に入っていたね。ヘンテコなおじさん、さようなら。

 

キースは7月5日、おじさんは7月6日に着て、さようなら、さようなら。

洗濯してぼろ布になって、どこかの汚れを拭き取ります。