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タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

インタビュー入門講座の課題が今回は書評でした。テーマは「声を聞くこと」。

提出したものは↓

 

 

 無意味と物語と暴力   

                           

< お父さん、犬が死んでるよ。> という声から、岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)は始まる。聞き取り調査の途中で、この声はぽかり宙づりになったまま、無視されてどこにもつながらない。それでいてその夜を、岸にとって < まるでラテンアメリカの作家によって書かれた、「何が書いてあるかはっきりわからないが、妙に記憶にだけ残る短編小説」のような夜 > にしてしまう。

 

  小学生のとき、あまり親しくないクラスメートの家へ一度だけ遊びに行った。母親のいない子で、幼い弟妹がいて、父親はタクシー運転手で留守がちだと言っていた。狭い団地に荷物が多く、季節はずれの電気ごたつをテーブル代わりに使っていて、天板にはコップの丸い輪っかの跡が無数についていた。そのコップの跡が、何十年もたった今も記憶から消えない。無数の丸い輪っかの跡が、その家を語る声だった。そこから彼女たちの生活が立ち昇っていた。

 

 

 調査者として他者の語りに耳を傾ける社会学者は、その語りの分析において、一般化、全体化というある種の暴力と無縁ではいられない。< 人の語りを聞くということは、ある人生の中に入っていくということ > だけれど、< 安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなこと > でもある。そっとすくいとること。過剰な意味づけを自戒しつつ、耳を済ますこと。

 

< どうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたい>と岸は綴る。< 世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まって世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて > 書くのだと。

 

 人はともすれば、できあいの鋳型に、ありがちな物語に事物を落とし込み、片づける。

< 物語は「絶対に外せない眼鏡」のようなもので、私たちはそうした物語から自由になり、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない。しかし、それらが中断され、引き裂かれ、矛盾をきたすときに、物語の外側にある「なにか」が、かすかにこちらを覗き込んでいるのかもしれない。>

 何かが垣間見えるのではなく、向こうが覗き込んでいるのがおもしろい。無意味や無音、断片を断片のままに受け入れたとき、ありがちではない物語のかけらが生まれるのかもしれない。

 

< 私たちは、私たちのまわりの世界と対話することはできない。すべての物の存在には意味はない。そして、私たちが陥っている状況にも、特にたいした意味があるわけではない。

 そもそも、私たちがそれぞれ「この私」であることにすら、何の意味もないのである。私たちは、ただ無意味な偶然で、この時代のこの国のこの街のこの私に生まれついてしまったのだ。あとはもう、このまま死ぬしかない。>

 わあ、と思う。この身も蓋もない認識は、昨年、ただひとりの家族を失って以来、私の感じていることそのままだ。それでも生きて行く、と言わないで、< このまま死ぬしかない > がいい。すべてを無価値、無意味と感じる心を、そっとしておいてくれる。

 

 ひとりになって、首吊り自殺が多いのはなるほどと納得した。首吊りは思い立ったが吉日(!)だ。手近な材料で即刻実行できる。人はそんなふうに無意味の中でふと死んでしまったりもするのだろう。物語の裂け目に陥落する。物語の眼鏡が一瞬ずれて、「無」のようなものに覗き込まれて。

 

< インタビューと、息を止めて海に潜ることは、とてもよく似ている。ひとの生活史を聞くときはいつも、冷たくて暗い海のなかに、ひとりで裸で潜っていくような感覚がある。>

 

 むむむむ。私はダイバー。海に潜るのはとびきり楽しい。スクーバなので息は止めない。浮力調整ベストの空気を抜くのと同時に息を吐き、肺を小さくしてすーっと海のなかに落ちていく。潜降でしか味わうことのできない特別な感覚。ナイト・ダイブも少しも怖くない。真っ暗な海のなか、ダイバーのライトの光の筋が行き交う光景は宇宙遊泳みたいだ。人間が無重力を体験できるのは、宇宙とダイビングだけ。夜の海にはエイリアンさながら、奇怪な甲殻類やなにかが待っている。何と出会うかわからない無重力の世界も、インタビューに似ているのかもしれない。海のなかでは自分の吐いた息がぶくぶくと音を立てる。言葉を発しない魚に私はついつい声をかける。

 

 犬に説教するおばちゃんの話が出てくる。 < おばちゃんは、おすわりをした犬の正面に自分もしゃがみこんで、両手で犬の顔をつかんで、「あかんで! ちゃんと約束したやん! 家を出るとき、ちゃんと約束したやん! 約束守らなあかんやん!」(中略)  柴犬は、両手で顔をくしゃくしゃに揉まれて、困っていた。>

 

 岸はこれは擬人化ではなく、区別をしないのだと言う。おばちゃんのなかで、人も物も動物も、すべてが平等に生きているのだと。

 

 私はけっこう海中で魚と目が合う。魚はたいてい、ちょっとバツが悪そうに目をそらす。それはどこか、満員電車のなかでの視線のやりとりに似ている。

 

 先生の講評の冒頭に取り上げていただいたのですが、そこでまず出てきた言葉が「告白」でした。走り書きのメモから先生が言ってくださったことをうまく再現できるかどうか心許ないのですが、読み手にも書き手にも〝楔(くさび)〟として作用する、言ってしまったことで引き返せなくなる言葉、自ずと次の一手が決まってしまう言葉、もうきれいごとではない本当のことを言うしかない領域へと書き手を押し出す言葉というものがあり、それは人の心に触れる。その一方で、きれいごとじゃない、自分が〝いい〟と思うことを言うのはつらい。大事なことを否定されると心が揺らぐ。けれども取材の文章でも実は告白がなんらかの形で入ることで、誠実な文章、読みたい文章になる。

 私の書いたものは一見引用が多いように見えて、そのあいだを埋めるもののほとんどは告白である。無意味無価値という視点からは、悲劇が長く生き残っていることの理由も見えてくる。

うーむ、やっぱうまくまとまんない。とにかく、「告白」と言われて、あー、だから提出したあとで、あんなものを出してよかったのかなーという逡巡がぐるぐるであったのだなあと。「告白」してるから恥ずかしいんですよね、怖いし。

 

でも、先生の講評も < すべてを無意味、無価値と感じる心を、そっとしておいてくれる> もので、いやむしろその心で書いていくのだと。

 

あと今回強烈に感じたのが自分の文章の書き方で、私は全体の構成をきちんと考えてから書くということができず、とりあえずとっかかりの引用箇所があって、テーマも結論もないまま、そこで書いたことに引っ張られて結末にだどり着くんだよなあ、ほとんど何を書いても。行き先は文章に聞いてくれ〜。自分が何を書くかわからないのはちょっとおもしろいですけど。