タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

ジニのパズル

ジニのパズル

塾の課題です。

提出したものは ↓

 

単一民族国家

 私が大阪市立すみれ小学校4年生のときだったと思う。昼休みに教室の先生の机の上に〝外国人〟と書いた紙が置いてあるのが目にとまった。外国人? そこにはクラスメート数人の名前と、それぞれの〝本名〟が書いてあった。びっくりした。なぜあの紙があんなふうに無造作に誰でも見られる場所に置いてあったのだろうと、今でも考える。担任のうっかり? 悪意? そもそもなんのためにあんなリストを作る?

 崔実『ジニのパズル』は正直読み返すのがしんどい小説だった。在日朝鮮人である主人公ジニは<学校——あるいはこの世界からたらい回しにされたように、東京、ハワイ州、そしてオレゴン州>と渡り歩くわけだが、構成、展開、内容、表現もろもろ、ひっかかりまくって集中できない。なんだかざわざわと気持ち悪い。ただ、小学校、朝鮮学校でのジニを描く部分は、近くにあっても見えていないものを、私たちの鈍感を、見事に突きつけてくれる。

 朝鮮学校に対して日本の学校が〝日本学校〟と呼ばれているのも、当たり前だけど新鮮だったし、朝鮮学校内ではすべて朝鮮語、というのも、あっそうか、そりゃそうだわなと。そんなところへいきなり言葉のできない子供を放り込むという親の選択、ならばといきなり授業を日本語にするという学校の判断、そんなことされたら当人めちゃくちゃプレッシャーじゃん、気づけんかそれくらいの一方で、別に朝鮮学校に移ることを嫌がったようすもないのに、朝鮮語を学ぼうとしないジニもなあ。それでもいじめを前にして<ここは朝鮮学校だ。日本学校ではない。同じ民族同士だ。私は、羽をうんとひろげることにした。夢のようだった。そこには揺るぎ無い自由があった。>と語るジニから、逆に日本学校での小学生時代の彼女の窮屈さが測り知れるし、<教育というと〝北朝鮮の〟という誤解をされやすいが、先生たちの口から北朝鮮という言葉を聞くことはない。北朝鮮の話なんて誰もしない。制服と学校行事を除いては、本当に日本の学校と変わらなかった>の記述に先入観の壁が崩れていく。

 テポドン発射の日に憎悪の標的にされたジニの<首を絞められただけなら警察に行ったかもしれない。だけど、そうじゃない。そうじゃなかった。だから、私は警察どころか、家族にも、友人にも、これから先、誰にも何も言わないだろう。>という言葉は、思春期の少女の負った傷そのままに、ぱっくりと口を開け血を流している。そして、この陰湿に踏みにじられる感覚は肉体的強者→弱者、男→女、日本→朝鮮の構図に重なっていく。

 日本は単一民族国家? 単一民族の教室に外国人リスト? それは秘密? 言ってはいけないこと? なぜ隠す? 隠さないと襲いかかってくる、野蛮な単一民族国家です。

 

 絶賛の声もある作品ですが、ものすごく雑。突っ込みどころだらけ。実際に起こったことであっても、小説としての説得力を担保できていないのなら、それはダメなわけで。 そこを補ってあまりある魅力の作品とまでは思えなかったなあ。されど、貶すは易し、なので、 極力貶さない方向で書いてみました。