タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

芽むしり仔撃ち

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 

塾の課題です。

意外とおもしろかったぁ。

 

セクスの人工世界

 <夜更けに仲間の少年二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。>大江健三郎『芽むしり仔撃ち』は曖昧に始まる。そこへ〝セクス〟だ。ほどなく彼らは田舎へ疎開させられる感化院の少年たちで、時代は第二次世界対戦中とわかるわけだが、この時代、いやどの時代の日本のどこの都会に、性器をフランス語でセクスと呼ぶような、すかした少年が存在するのか?

   冒頭、〝セクス〟によって投げ込まれた違和感は、〝僕〟の弟の描写でさらに加速する。<弟のバラ色に輝く頬、潤んだ虹彩の美しさを誇りに感じた><弟は、微笑をあふれさせながらポケットの鳥の縫取りのある広い手巾で頬をぬぐい>、とても感化院の薄汚れた不良とは思えぬ学習院初等科的弟。そして、この小説の中で唯一時代を明示する〝予科練〟が登場するのだが、<すばらしく荘重で若わかしく情欲に満ちた服装の青年ら、予科練の兵隊たち><念入りに調教した馬のように美しかった><情欲的で動物的な逞しい美しさ><ひきしまって小さく硬く欲望をそそる制服のなかの尻、逞しい頚、剃りたてで青っぽい顎>、<情欲にみちて極度にみだらな戦争の服>と、このあたり、少女マンガ +「さぶ」&「アラン」(注 : ホモ雑誌&少女向け!ホモ雑誌)。

 感化院の15人の少年たちはひとつの村へ押込められ、疫病が発生して、村人たちから置き去りにされ、束の間のぱっとしない自由を味わい、やがて帰還した村人たちからまた、自由をむしり取られる。

 そうした物語の流れの中で、唯一<僕>から名を問われるのは朝鮮人少年、李。ほかに名があるのは南にあこがれて〝南〟と呼ばれる少年と、〝クマ〟から〝レオ〟(注 : この命名はともに英語読みで名がレオとなるトルストイトロツキーを思い起こさせる)になる犬。他の登場人物は僕、弟、脱走兵、少女、鍛冶屋など一般名詞のままで、感化院の少年たちなどはまるで背景画かなにかのようにひとくくりで〝年少の仲間〟とされてしまう。

 〝愛人〟となる少女に<「あんたの年としては勇気があるほうよ」>と言われて、〝僕〟は<「俺の年を誰に聞いたんだ」>と問い返すが、実際、この小説の中で年齢を明示されたものは誰ひとりいない。この少女にしても<少女のセクスの冷たく紙のように乾燥している表面>と、死体となったときの<ぼろにくるまれた小さなもの>という描写から、思春期前の10歳前後かと推測されるのみだ。

 山に、村人に閉じ込められ、荒れ狂う海に漂流する思いでいる少年たちの世界に、〝僕〟の無情な父は出てきても、母は一切登場しない。唯一例外的な〝少女〟と〝僕〟の交情も、〝接触〟と〝後退〟でしかなく、予科練への欲情の粘度とは対照的だ。女は母性としても女性としても登場しない。

 しかし、この〝僕〟の語りの生み出す曖昧模糊世界、動物の死骸と腐臭、臓器、汚物、糞尿にまみれたホモソーシャル集団、閉塞と圧迫と暴力の物語には、人工物ならではのいびつな魅力がある。だから舐めるような読書に耐えうるのだ。それを普遍性というのはちょっと違うのかもしれないけれども。

 

 この小説から〝敢えて欠落させられているもの〟を拾い上げるだけで終わってしまいました。あと2段くらい丁寧に掘り下げたかったなあ。