タコカバウータン

えらそうなことを言っていても気が小さいです。褒められて伸びるタイプです。

極夜行 角幡唯介

極夜行

 

 ノンフィクションについて書くという塾の課題です。

 

 

『極夜行』角幡唯介 食べること 食べられること

 

 『極夜行』は探検家、角幡唯介が、太陽の昇らない冬の北極の闇の中を、一頭の犬とともに歩き続ける旅の記録だ。四カ月もの極寒暗黒の旅は人間の精神になにをもたらすのか、旅の果てについに太陽を見たときどうなるのか、筆者自身を被験者とした、ある種の人体実験とも言える。またそれは、地図の空白を埋めるという近代的な拡張の論理に基づく探検の余白がもはやなくなった現代において、現代というシステムそのものを脱するという、新たな探検でもあった。

 四年間をかけた周到な準備の下で決行された旅だったが、出発後わずか十五キロで激しいブリザードの中、進路決定の頼みの綱の六分儀を飛ばされ紛失、以後、地図とコンパスと月と星を頼りに暗闇の中を重い橇を引いて歩き続けるしかなくなる。

 さらに食糧・燃料を備蓄しておいた小屋は白熊に破壊され、食料は食べ尽され、最後の希望のイギリス隊が残した食糧も、やはり白熊に食べられてしまっていた。ドッグフードが尽きればまず犬の死が確実なものとなり、角幡自身の食糧も足りず、ライフルで獲物を仕留めるしか生還の道はなくなった。

 実はこのあたりまで、正直、わたし大の角幡ファンなのになあ……、と微妙な読書が続いていた。まず、本書は角幡の妻が難産の末に長女を出産する場面、そこに立ち会った角幡のさまざまな思いから始まるのだが、出産=体内の闇から光へ=極夜から太陽へという図式をいきなり提示されてしまったようで、種明かし済みの物語世界を進んでいくようなむずむずした感じがつきまとった。最後まで読み進めていけば、それが決して頭で安易に組み立てた図式ではなく、テントごと吹き飛ばされそうな激しいブリザードの中で、死を目の前にして生まれた実感だというのはわかるのだけれど、それならばなおさら、出産場面はそこに盛り込むべきではなかったのか。

 もうひとつの困難はこの暗黒の極地の旅のイメージを立ち上げることだった。本書を読みながら何度も、この人は真っ暗な中を歩いているのだからね、と自分に念を押さなくてはならなかった。なにしろ普通、人は極寒の地の真っ暗闇の中を歩いたりはしないし、北極と言われても、白熊、氷河、犬橇、イヌイット、くらいの絵葉書的な定番イメージしか浮かばない者にとって、角幡の旅する世界を頭の中に構築するのはなかなかに難しい。いつの間にか、平板な絵葉書世界、しかも闇の黒ではなく雪の白にすり替ってしまう。

 そんなむずむずもやもやが一気に吹き飛んだのが、飢餓の接近からだった。角幡は最初、犬の死は絶対に避けなければならないと思う。犬は白熊の接近を知らせる番犬、橇の引き手という役割以上に、孤独な旅を支える精神的なパートナーだったからだ。そこで犬を、自分を救うために、必死で麝香牛などの獲物を捕らえようとするのだが、闇の中、なかなか獲物に出会えない。そして、獲物を追って極夜の奥へ奥へと踏み入るうちに、角幡は一転、犬の肉を食べることを完全に視野に入れるようになる。獲物が取れない以上、犬が死ぬことは避けられず、死んだ犬の肉を食べれば角幡自身は出発地点の村へ戻れるからだ。《犬が将来死ぬことを想定することでわたしは自分が死ぬ恐怖から逃れることができていたのだ》

 逆になにかが起こって角幡が先に死んだ場合、犬は角幡を食べただろうか? 自死したハリウッド女優が何週間も発見されず、密室状態になっていた寝室で女優のペットの小型犬が遺体を食べていた、という話を読んだのは確かケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』だったと思う。袋に入れられ搬出される遺体の写真に〝ドッグフード〟という、いかにもケネス・アンガー的な悪趣味なキャプションがついていた記憶まであるのに、手元の一、二巻をざっと調べても見つからない。記憶違いだろうか。

 それはさておき、狼の一部が生存に有利と判断して人間の庇護下に入り進化したとされる犬と、極北の過酷な自然環境を生き延びるために犬を必要とする人間の相互依存を突き詰めた果ての《生きることが最上位の徳目である》《むき出しの生と死のモラル》が、餓死を前にした極限状態の中で一気に顕在化する。

《俺はお前をパートナーにする。だがいざというときにはお前のことを食う》

 犬に無用の服を着せて連れ歩く、都会ではもはや見慣れた光景とのなんという落差。そして、本書には書かれていないけれど、犬だって必要に迫られれば飼い主を食うのだ、たぶん。

 結局、帰路で幸運にも往路で見落としていたドッグフードの備蓄を発見し、犬を殺すことにはならなかったが、常に犬のことを考えていた日々、角幡が毎晩寝袋の中で犬を殺めるシーンを想像し、物書きの業でそれを必ず文章化せずにはいられなかったというのも、とても正直で生々しい告白だ。

 さらに、飢餓が迫る以前からなのだが、角幡が脱糞したばかりの便を犬が《待ってましたとばかりに糞にとびつき、じつに旨そうな音をたててむしゃむしゃと貪った》というのも興味深い。東南アジアのどこかの国の田舎のトイレでは、下で豚が待ち構えていて、人間の便が落ちてくるやいなやたいらげる、だから、旅行者は絶対そこでは豚肉を食べない、という話も聞いたことがある。確かに極寒の地ではほかほかと湯気をたてているだけでもう美味しそうに見えるだろうけれど、人間の比ではない嗅覚を持つ犬にとって、あるいは豚にとっても、人糞はそんなに美味なのか?

 その後の旅の中で角幡は自分たちの背後を音もなくついてきている狼に気づく。《狼を撃つことに、私は何の躊躇いも感じなかった。私を殺すチャンスがあったのに、私を殺さなかったこの狼が悪いのだ。そう思った。》ところが、いつもなら獲物に大興奮する犬が何の反応も示さず、肉を与えてもなかなか食べようとしない。そもそも、狼が近づいてきたときにも吠えもしなかったのだ。それは狼と犬の種としての近さゆえかと、角幡は思いをめぐらせる。そして、実際に食べてみると、狼の肉は《味に奥行きがあり、噛むほどに旨みが滲み出してきて、とりわけ背中や首回りなどの柔らかい部位は今まで食べた肉の中で一番というほど極上だった。》では、犬はさておき、なぜ人間は、《狼が増えると麝香牛や馴鹿が少なくなって困る》とぼやく極地の人々は、狼を食べないのか。

 狼を撃つ刹那の角幡の記述。《顔は一見無表情に見えるが、その奥には明らかに複雑な感情がひそんでいた。目は恐ろしく虚無的で、その視線には私の行動をすべて見透かしているのではないかと思われるほどの透徹した鋭さがあった。狼の行動には人間の心をざわつかせる何かがあり、とくに目を見るかぎりでは、この動物には人間とさして変わらない高度な知性が宿っているにちがいないとさえ思えてくる。》狼を食べることは阻むのは、その知的な美しさだろうか。

 たとえば映画『ロード・オブ・ザ・リング』では、グロテスクな異形の生物が善との戦いの中で大量殺戮されていく。あれがもし全部、知的で美しい妖精の風貌、あるいは愛くるしい小動物の風貌だったら、あの大量虐殺を平気で見ていられるだろうか。悪いやつらが殺しても心の傷まない邪悪な風貌であるのは、ある種物語の必然だ。美醜が良心を左右する。では、食べることにおいても、たとえばパンダが、オランウータンが、ものすごく美味だとしたら、人間はそれを食するようになっただろうか。

 極夜の旅の記録を読んで心に下りてきたのは意外にも、人間と動物の相互依存のありよう、人が何を食べ、何を食べないことをどう選んできたのかという、生存の根っこにかかわる疑問だった。

 

 なんでも5回読む師匠の下にありながら、また雑な読みで書いてしまったけれども、正直今回の角幡作品は……。逆に『漂流』などを読み返したくなりました。